宿毛市史【近世編‐宗教‐神社】
神仏分離
仏教が伝来したとき異教として争いはあったが、それ以来手厚い保護をうけて発展してきたと云うことができる。神道が宗教としての組織をもたないこともあって本地垂迹説により神仏混淆の状態がつづいたのである。
「それ仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり、本あらざれぱ迹たることなく、迹にあらざれぱ本をあらわすことなし。神明と云い、仏陀と云い、表となり、裏となりて互に利益をほどこし、垂迹と云い、本地と云い、権となり実となりてともに済度をいたす」(諸神本懷集)と説いたのである。
仏教の各宗派それぞれ神道論をとなへたが、神の本地は釈迦であることには変りはない。天照大神も所詮は仏陀の化身であると説いたのである。だから寺院の中に神社が建立されていった。北畠親房の「大日本は神国なり」(『神皇正統記』)と云う思想もあらわれ、徳川時代になると儒学の奨励から神儒習合となり、仏教排斥の思想も一部に唱えられるようになった。また一方ではキリスト教の流入によって、これが排斥のために宗門改めが行なわれるようになると、仏教の保護政策をとる形となった。国民全体が仏教徒になることを強制したのであった。
幕末に及んで勤皇思想が勃興するようになると、国学者は仏教排斥を唱えた。幕府と一体となってきた仏教を排することは人心を一新することにもつながるとし、また日本は神国なりとする思想は天皇と神道を結合することによって政治的地位を確固不動のものとしようとしたのである。しかし古来から神道と仏教は混淆されているのでまづ神仏分離を必要とした。
慶応4年(1868)3月まづ神仏分離令を発し、神祗官を設けて、神社およぴ神官をこれに配属することとし、仏像を神体とすることを禁じ、社前の仏像、仏具の取除きを命じたのである。これがいわゆる廃仏毀釈運動である。同年4月1日には比叡山坂本の日吉(ひえ)神社で平田派の国学者で社司であった樹下茂国は実力をもつて神体の仏像、僧像をはじめ経巻、法器などを破毀したのみでなく焼きすてた。それを手始めに全国各地の神仏混淆の社寺では仏堂、仏像、仏具などを取り払ったのである。信州松本藩では92か寺のうち83か寺を廃止、佐渡ヶ島では500余の寺を80か寺に合寺するように命じた。従って僧侶で還俗を希望するものはすぺて神職として救済したのである。廃仏毀釈によって三河、石見、越前、薩摩などで反対運動が起ると共にキリスト教徒も信教自由の運動を展開することになり、明治8年(1875)11月信教自由の通達が出されるに至った。かくて廃寺の寺も再興願によって許可されているが、仏像をはじめ文化財や諸記録類の滅失による損失は計り知ることができない。
宿毛の神仏分離
土佐の寺院は信徒の寄附によって経営されるものは少なく、少し大きな寺では造営は藩よりなされ寺領寺床もみな給附せられていたのであるが、廃藩置県となって寺領は廃せられ造営は禁止されたので、寺院を維持する方法はなくなった。僧侶は還俗して神職となり、先祖祭を神式に改めることとなった。
仏像なども取り捨られたものが多かったというが、安政元年(1854)12月25日の太政官符には寺院の梵鐘は古来よりの名器を除きすべて鋳つぶして大砲とすべし、ということで廃寺のときにはいくらもなかったという。その前年嘉永6年(1853)2月には銅鉄類回収令が出されていたのである。
一、古銅類 壱貫匁に付代八銭三十二匁九分替
一、古鍋鉄類 拾貫匁に付代八銭三十八匁替
| | 但1人役八貫目持運賃一足につき八銭八分ずつをもって物部川より東、仁淀川より西の最寄の分一役場へ持ち出し船積仰せつけられる筈。 |
これは海防手当のため、至急火砲鋳造をせまられているので、土佐郡石立村の火筒鋳立場へ持ち出せ、代銭は現金にて支払うというのである。第二次世界大戦に際して各家庭の鉄を強制的に回収して武器を製造したと同じことが幕末にもあったことを知るのである。
土佐で廃寺となったものは『高知県史要』によれぱ439ヶ寺とあり、『南路志翼』に廃寺届をのせたるもの真言宗186ヶ寺、曹洞宗98ヶ寺、真宗8ヶ寺、日蓮宗六ヶ寺、禅宗3ヶ寺で総計301ヶ寺に及べり(『明治維新神仏分離史料』)とある中から宿毛市関係の寺を採録する。
本山西京醍醐報恩寺末 |
山田村 |
明治4年廃 |
石見寺末 |
五法寺 |
芳奈村 |
同 |
同 |
勝福寺 |
和田村 |
同 |
同 |
正住寺 |
平田村 |
同 |
同 |
延光寺 |
伊与野村 |
同 |
同 |
滝厳寺 |
以上明治8年3月30日 |
駿州山脇長源院末 |
宿毛村 |
明治4年3月 |
真如寺末 |
東福寺 |
二宮村 |
同 |
同寺末東福寺支配 |
寿福院 |
大島村 |
同 |
同 |
洞仙寺 |
押野川 |
同 |
同 |
桂昌庵 |
大深 |
同 |
同 |
安養寺 |
宇須々木 |
同 |
同 |
円覚寺 |
橋上 |
同 |
同 |
清学寺 |
福良 |
同 |
同 |
福泉寺 |
伊与野 |
同 |
同 |
永昌寺 |
内ノ浦 |
同 |
同 |
宗楽寺 |
平田 |
同 |
同小本寺 |
藤林寺 |
黒川 |
同 |
藤林寺末 |
喜運寺 |
右各寺廃寺の儀は、旧藩改革の節神式御開きにつき一円廃仏の御趣意に候。よって至急廃寺を願出づぺしと御教諭を蒙り一同恐察奉りやむを得ざる事により願を以て廃号相蒙り候間右のわけ上申仕候なり。(明治8年4月2日。)
以上は明治4年に廃寺となったものを再調査したものと考えられることは「現存仕り候」と云うものもあり、「区区相わかちがたく」明治8年に確認したものであろう。以上の通り宿毛市の寺も多く廃寺となったが妙栄寺と清宝寺は廃寺届を出さなかったものと見える。「ひとり真宗のみは依然として存在し他宗の廃寺によりて憎徒は真宗にあつまり来りたるを以て、従来の維持に窮したるものといえども挽回に赴きたり」(『明治維新神仏分離史料』)と記されている。それが明治8年の信教自由の令によって廃寺願を出したものも、願により再興されることになった。
| 延光 | 寺 平田町中山 |
| 宗 | 派 新義真言宗智山派 |
| 本 | 寺 京都智積院 |
| 本 | 尊 薬師如来 |
| | その他の仏像は両脇立、日光菩薩、月光菩薩 |
| 由 | 緒 神亀元年(724)行基の開創という。中興は明俊僧正で自作の木像ありと云う。延暦14年(795)弘法大師錫を当山に留め日夜修法のことがあったがのち四国八十八ヶ所制定のとき脇坊12ヶ寺の大伽藍を創建して39番の札所とせられたと伝へている。「昔時は脇坊十二坊あり、今は退転これなく、本坊にこれある節は元親より薬師へ寄附ならぴに南尊上人(天正19年田ノ浦飯積寺より入院なり)住職の時代まで、南光院知行その他高五百五十石これあり、御国印ならぴに当山縁起など本坊焼失の時に焼亡」したと南路志にある。 |
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寺山延光寺 |
中興明俊僧正
法眼和尚 正応3年頃保持なり
権律師明尊 応永2年頃
律師良尊 同18年頃
権律師正尊 同26年頃
権大僧都清重 大永5年頃
権大僧都頼遍 天文16年頃
南尊上人 天正19年冬田ノ浦村飯積寺より入院なり、南光坊の祖なり、
慶長3年(1598)10月延光寺にて遷化
法印宗院 慶長3年より慶安4年(1651)まで住職、同年3月遷化
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南光院文書 |
是までは修験兼帯なり、南尊当寺へ入院のわけは南光院日記にあり。宗院以後は、延光寺と南光院と各別々に相立つなり」(『南路志』)「当寺はもと足摺山の末寺なり、今は安並村石見寺末なり」とある。清和天皇の頃宮廷の左近桜、右近橘が枯死せんとするとき明俊僧正と金剛福寺の南仏上人が勅詔によって参内祈祷の結果枯死せんとした名木が蘇生した。天皇叡感斜ならずその祈祷したところの不動明王の画像を賜ったと伝へ明俊の拝領したという不動画像は延光寺の宝物として保存されている。金剛福寺の南仏上人はその後中村市の坂本に住し、南仏堂で示寂すると云う。明治4年神仏分離のため廃寺となったが、明治22年に再興された。
| 南光 | 院 平田町中山 |
| | 真言宗修験道場であって、もと延光寺の兼帯で、当院の元祖は南尊上人であると『南路志』にある。長宗我部元親が南光院の行者に与へた手紙が『南路志』にのせられている。「十町ぱかり行く奥の院といふあり。滝もありて幽邃絶厳なり、此寺かくのごとく霊地にしてむかしの事寥々としてきく事なし、まことに痛絶すぺし」(「四国遍礼霊場記」)と南光院のことが記されている。大和大峰山に属する修験道場となったのは「先達の儀元祖大隅南光院が讃州金毘羅に罷在リ候ところ元親公の御招きにより御国へ参り寺山一宇を拝領、以来即ち寺山先達と申候」「大峰28宿のうち1宿は先祖より持ち来り、土州寺山南光院と申候」(『南路志』)とある。この文書は亥12月21日とあるのみで何年であるかは不明であるが、南光院も山伏道場として重要な位置をしめていたものと思われるが、いつ廃退したかは明らかでない。 |
| 東福 | 院 宿毛 |
| 宗 | 派 臨済宗 |
| 本 | 寺 京都東福寺 |
| 本 | 尊 釈迦牟尼仏 |
| そ | の他仏像 達磨、聖徳太子 |
| 由 | 緒 草創の年代は不明であるが、天正地検帳に「東福寺の前」のホノギがある。山内左衛門佐可氏が入国して菩提寺として再興した。寺門の南に池泉がある故に南泉山東福寺と号した。嶺関和尚を開山とす。嶺関和尚は曹洞宗真如寺の4世で、両谷禅師の法嗣である。3代節氏は仏殿を新しく建立し毎年八石を寄附し、寺領を二十石とし、また鎮守社、弁財天社を建立した。明治4年3月廃寺となり、明治12年臨済宗により再興し、東福院となる。 |
| 妙栄 | 寺 宿毛 |
| 宗 | 派 日蓮宗 |
| 本 | 寺 甲斐身延山久遠寺 |
| 本 | 尊 釈迦牟尼世尊 |
| 由 | 緒 開山は久遠院日信聖人、「大檀那安東大郎左衛門室法雲院殿妙栄日通、尊霊は一豊公の御姉君にして北方殿という、慶長6辛丑年(1601)御建立、同11年11月15日御遠行、墓は廟寺内にあり。」「北方殿の名は通、山内但馬守盛豊の女なり、天文14年安東太郎左衛門郷氏に嫁す。郷氏は美濃国北方城に居る、故に通夫人をまた北方殿と云う。郷氏戦死し慶長6年長子左衛門佐可氏に従って土佐国宿毛城に移る。知行六千二百石の内与力知三千四百石、外に北方殿へ二百石下され、8月19日一豊様御判物頂戴」と『南路志』は記している。なお「寺地三反は山内源蔵より免許、寺領は二十石、もと中山村にて八十石、北方様御寄附その後宿毛村で本田五十石になった。2代目日通和尚隠居のとき看坊に三十石減少、今は二十石なり」(『南路志』)とあり、また野中清七以下欽六、希四郎、貞四郎を祀ってあったが、兼山の三百年祭に当り寛、将と母美濃部つまの位牌も浄土寺から移した。もと宿毛電報電話局の敷地内にあったが昭和36年宿毛市役所裏に移った。 |
| 浄土 | 寺 宿毛 |
| 宗 | 派 浄土宗鎮西派 |
| 本 | 寺 京都智恩院 |
| 本 | 尊 阿弥陀如来 |
| そ | の他の仏像、円光大師、善導大師、観世音菩薩 |
| 由 | 緒 往昔は坂ノ下村にあり、宝永4年(1707)の大変により流失、宿毛に移り享保元年(1716)火災により焼失せりという。同境内に天満宮あり。もと中村正福寺末であったが明治4年3月廃寺となり、明治17年京都智恩院の出張所として建立、明治25年泉州堺より喜運寺の株を移してもとの浄土寺を称す。口碑によるに弘法大師が足摺山金剛福寺と寺山延光寺の開山のため坂ノ下寺の谷に草庵を設け、その記念として自刻の如意輪観音石像と自像の2軀を留めたという。今境内の観音堂に奉安する石像はこの遺物であろうか。なお兼山遺子の将、寛と美濃部つまの位牌が祀られていたのであるが兼山三百年祭に際して妙栄寺へ移して供養することになった。この3名の位牌が浄土寺にある謎は解けなかった。最近妙栄寺で次の文書が、発見された。 |
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野中家供養料(妙栄寺文書) |
覚扣
一、金三両、栄順院様御金の内
右野中氏御菩提の永々供養、祠堂金として妙栄寺浄土寺へ
遣わされ候につき御役場へ相渡し始末請取置候
寛政元酉年7月7日 時岡又四郎
とあり、娘達は浄土寺へ祭られていたことが明らかになった。
浄土寺は昭和46年5月与市明に移転した。
| 清宝 | 寺 宿毛 |
| 宗 | 派 浄土真宗西本願寺派 |
| 本 | 寺 山城国西本願寺 |
| 本 | 尊 阿弥陀如来 |
| 由 | 緒 もと坂下にあったが慶長年間現在の地に移ったものであるという。(南路志) |
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清 宝 寺 |
| 五宝 | 寺 山奈町山田 |
| 宗 | 派 新義真言宗高野山派 |
| 本 | 寺 山形県華蔵院 |
| 本 | 尊 十一面観世音菩薩 春日作 |
| 由 | 緒 開山は弘法大師なりと云う、はじめ医法山上にあったが、風が強いため後世山下に移したものである。蕘光法印の中興にしてもと医法寺であったのを正徳5年五宝寺と改めた。往昔は七堂伽藍なりと云い大永8子年(1528)12月の棟札ありと云う。 |
覚
一、三反 屋敷共に 三原之庄屋
一、二反 郷之庄屋、主馬玄蕃
一、二反 山田庄屋右京
一、一反 横瀬之庄屋
右の分扶持せしめ候間両人見はからい遣すべく候
9月29日 一豊花押
青木忠兵衛殿
樟 衛門七殿
外に寺付田畑二反廿一代、堂床地二代(矢倉帳に御引地とあリ)、
堂寺付山林藪3ヶ所(南路志)
明治4年石見寺末であったが廃寺となり、のち再興して高野寺末となった。
| 円覚 | 寺 宿毛市字須々木 |
| 宗 | 派 曹洞宗 |
| 本 | 寺 愛媛県御荘町興禅寺 |
| 本 | 尊 阿弥陀如来 |
| 脇 | 仏 観世音菩薩 |
| 由 | 緒 慶長2年(1597)5月の開創で、土佐郡曹洞宗真如寺末東福寺支配であったが、明治4年3月廃寺となった。ついで明治13年6月復興して興禅寺末となった。 |
| 藤林 | 寺 平田町戸内 |
| 宗 | 派 曹洞宗 |
| 本 | 寺 愛媛県御荘町観音寺 |
| 本 | 尊 釈迦如来 |
| 由 | 緒 開基は正三位権大納言土佐守一条房家であるが、創立年月は詳かでない。藤林寺と称し、開祖は印宗道可和尚(伊子龍沢寺4世)で寺領三百石を献じ一条家の菩提寺となった。長宗我部元親は三百石を没収し門前の土地三町三反を寄附したがのち上り地となった。山内氏となり五石の寺領となり、明治4年3月廃寺となったが引きつづき出張所をおきやがて明治18年8月許可を得て再興し今日に至る。(『幡多郡誌』)『南路志』には「開基は一条従三位権大納言房家公、天文8己亥年66才、法号藤林寺殿東泉大居士、七堂伽藍、脇房12ヶ寺これあリ、元親時代ことごとく退散」「一条公御墓所境内に2基あり、房家公御夫婦と云伝う、自然石なり」とある。 |
| 徳法 | 寺 沖の島町母島 |
| 宗 | 派 浄土真宗西本願寺派 |
| 本 | 寺 京都西本願寺 |
| 本 | 尊 阿弥陀如来 |
| そ | の他の仏像 親鸞上人、蓮如上人 |
| 由 | 緒 元和3年(1617)の草創である。天保元年(1830)正月火災により一切を焼失した。明治維新の神仏分離のときも廃寺とならなかったのは弘瀬の杉本義高の尽力によるものといわれている。 |
| 高願 | 寺 山奈町山田 |
| 宗 | 派 真宗大谷派 |
| 本 | 寺 京都大谷派本願寺 |
| 本 | 尊 阿弥陀如来 |
| そ | の他仏像 大祖聖人、蓮如上人、太子七高祖 |
| 由 | 緒 明治11年山戸明元氏の尽力によリ建立されたものである。 |
| 金蔵 | 寺 宿毛市宿毛荒瀬 |
| 本 | 尊 地蔵(秘仏) |
| 由 | 緒 創立年代は明らかでない。真言宗、教学院、光明院、修験持、滝室院など『南路志』にある。もとはそれらの堂塔があったのかも知れないが、北小路家の年譜書によると金龍寺、金蔵寺の両寺があった。開山中興は修験山城国行海法印であると云う。『南路志』には行海自筆の棟札(今はなし)があリ「奉謹受備当寺山院二号、明暦元乙未(1655)に雲龍山龍華院と号し高野山に於て学頭を清旻の時に受く。来世のため逆修を執行し今7回忌の故に寛文元辛丑(1661)9月29日不動像を造立し奉る坊者なり。我不敏なりと雖も23才にして発心し敬白す、施主は和州内山永久寺同行権大僧都大越家法印(行海)、生国は山城国の住人藤原末孫重近と申す者なり」とあったと云う。行海の墓があって歿年は明暦元未年9月2日である。従って自筆の棟札と云われるものは行海の7回忌のものであると思われる。北小路家系図によると山城国の住人藤原末孫重近が高野山にて修行して、金蔵寺へ来て書いたものであろう。北小路家は古くから金蔵寺に関係が深いのである。明治3年の神仏分離による廃寺名簿にはないが、御変革につき、士族神官を拝命すとあり、いまは堂を残すのみである。中に行海自作と伝へられる厨子がある。 |
| 仙吉 | 堂 金蔵寺境内にあり。千吉(仙吉)は近江の人で大峰へ13度、四国巡礼21度のとき宿毛にて病死、当寺の境内に葬ると『南路志』にあるが北小路家系図に「第13代金龍寺行寛、享保17年(1732)仙吉尊を金峰山に安置す」とある。仙吉坊について宿毛に残る伝承によると四国巡礼21度といわれているように巡回して宿毛へ来ると医薬や農事の方法を伝えて領民に尊敬されており宇須々木の庄屋を宿としていたが、宿毛天満宮のところで病気になり休んでいるところを宿毛の侍が新刀の試し斬りに斬り捨てた。すると仙吉坊の死体から白鴉(白鳩とも云)が西の方へ向って飛ぴ立った。西の方庄屋の屋根にとまった鴉を撃つべく鉄砲をかまへたところ鴉はいきなリ火繩を喰へて飛ぴ去った。やがて鴉は宿毛へ戻って火繩でもって家を焼き払った。それが享保元年(1716)2月の大火である。仙吉坊の怨霊を恐れた町民は荒瀬に堂を建てて仙吉の霊を慰めることになった。火難よけの神として現在も仙吉坊の祭りが行なわれている。 |
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藤林寺一条房家墓 (寺石正路・上村昌訓写) |
金蔵寺大師堂 |
金蔵寺行海の墓 |
仙吉堂 |