宿毛市史【近世編‐宗教‐神社】
宗門改
切支丹宗は豊臣秀吉の九州統一の頃から禁止に傾きつつあったが、厳禁ではなかった。島原の乱が終った寛永15年(1638)9月を以て禁教令を出したのである。取締りは鎖国令となりあらゆる手段を用いてこれが禁圧をはかったのである。
毎年宗門改を行ないそれぞれの寺は自分の寺の信徒であるという証明(宗門手形)を発行することになった。
浦奉行であった淡輪四郎兵衛の『淡輪記』に、「万治4年(1661)卯月27日吉利支丹改のふれ状来る。同29日不出せゝにて吉利支丹改の廻文廻す」(兼山関係文書)とあるのを見ると「宗門改帳」を毎年3月に差出すことになっていたのであるから、これはその督促か或はその他の何かであろう。
「毎年宗門帳3月までに差出すべく、もし御法度の宗門の者あれぱ早速申出づぺく候。御高札の趣を守り、人別は念を入れて改め、宗門改め終ってから雇入れの下人等は、寺証文を別紙に取置くべき事」(『地方凡例録』)とあり、若し隠していて発見された場合は庄屋以下罰せられたのである。
また村々にある高札或は浦高札は次の如くであった。
切支丹宗門累年制禁なり、自然不審なる者あらぱ可申出、褒美として
ぱてれんの訴人 銀500枚
いるまんの訴人 銀300枚
立帰りもの訴人 同断
同宿並宗門訴人 同100枚
右の通り可被下、同宿宗門の内たりとも申出候品に寄、銀500枚可被下、隠置他処より於顕は其処の名主並に五人組一類とも罪科に可被行者也
正徳元年5月
右之通被仰出候趣領内の輩堅く可相守者也
このような高札が立てられる場所は各村々で定められており、現在で云へば掲示場である。重要な布達はここへ掲げられたのである。
宿毛の豊島家から発見された文書は前文と後が欠落しているが「宗門改」に関する文書の一部で次の通りである。
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宗門改文書 |
(前文欠)
| 一 | 、年来召仕候者は男女共常々宗門相改寺請取おかるべきこと |
| 一 | 、一季奉公の者召抱候はぱ出所方吟味をとげられ其上俗受寺取おかるべく候、他国者に候はばなお入念に取おかるぺき事 |
| 一 | 、諸奉公人の請人ニ立候義は親類縁者或は出所たしかなる者に候はぱ差支無之当分近付にて有之候はば曲言たるべき事 |
| 一 | 、他国浪人を置かるるは、何の理由で入来り候哉、出所ならぴに委細書付を以夫々差出すべき事 |
| 一 | 、他国より浪人或は飛脚等が参り5、3日逗留の時は別として若し永々滞留仕り候は不審なる者には無之哉否や、宗門改等の組頭衆へ差出を以て届け其上我等共へ仰せ聞かすべき事 |
| 一 | 、宗門改は主人の差出ならぴに組頭衆縮差出次に他国浪人差出等夫々調へ候様前々相定の案文の通り相替らず候間今まで通り御調あるべき事 |
| 一 | 、御預郷士の儀は例年の通り町郡浦それぞれ住所支配の方より改の差出し取揃」
以下は滅損しているので、年月は不明である。この宗門改による差出しを次に掲げる。
差出 播州松原村 吉兵衛
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| 一 | 、14端帆1艘、船頭水主11人乗
右私ども儀播州松原村のものにて御座候、 |
宗旨は真宗にて御座候、切支丹宗門にて御座無く候、尤前々より御当地へ罷越し申候、此度橋上御手山炭木浅木保佐積に入来り候、則ち国本妻鹿村教念寺宗門手形持参仕り御目にかけ申候、御当地へ参り宿請人に三原屋藤之丞を相頼み加判仕らせ指上申候、荷物積仕廻し次第に上方へ罷登り申すべく候。御当地に住居仕リ申すまじく候。右の通り相違御座なく候、若し御不審の儀御座候はばいか様とも仰せつけらるべく候、よって差出件の如し。
正徳5年未(1715)8月8日 播州松原村 吉兵衛
御奉行所様
右播州松原村吉兵衛船14端帆1艘人数11人乗り、則播州妻鹿村教念寺宗門手形持参仕り候、慥なる者共に付私宿請人に相立ち加判仕り指上げ候、若御不審の儀御座候はぱ如何共仰せつけらるべく候。以上
同日 宿請人 三原屋 藤之丞
前書の播州松原村吉兵衛船人数11人吟味仕り候ところ指出し候通り少も相違御座なく候、則ち本国旦那寺手形持参仕り御目にかけ申候、荷物積仕廻し次第に上方へ指登せ申すべく候、御当地に住居仕らせ申すまじく、私奥書仕り指上げ申候、以上。
同日 町庄屋 忠左衛門
御奉行所様
以上は他国者の場合であるが、当時播州の赤穂までも保佐木を宿毛分一役所から積出していたことがわかって興味深い文書である。以下「指出」は地下人どもで名前も明らかであるから掲げることとする。
一、男女5人 内男3人内15才以上弐人 御国者
14才以下1人
女2人 15才以上1人
14才以下1人
右不審なる者1人も御座なく候、此外1人も隠置申さず候、若し他所より切支丹宗門と申でるか或は1人にても隠置く由訴人あるにおいては如何様とも仰せつけらるべく候
一、切支丹の儀は申すに及ぱず宗旨疑はしきもの有之を見聞仕候はば早速言上仕るべく候、依て一札件の如し
明和6丑年(1769)6月8日
御手大工 喜左衛門判
与六判
御目附所
| | 右御手大工喜左衛門家内婦人に至るまで代々禅宗当寺の旦那に紛れなく御座候ニ付加判仕候、以上 |
真如寺末寺 東福寺
差出
一、男女6人 内男2人
女4人 内1人15以上
3人14以下
| | 右不審なる者1人も御座なく候、此外1人も隠置き申さず候、若他所より切支丹宗門と申出るか或は1人にても隠置く由訴人これあるに於ては如何様とも仰せつけらるべく候 |
一、切支丹の儀は申すに及ぱず宗旨疑はしき者これあるを見聞仕候はぱ早速言上仕るぺく候、よって一札如件
明和7寅年(1770)5月29日
御手明 次兵衛判
善 八判
御目附所
| | 右御手明次兵衛家内男女6人代々禅宗にて当寺の旦那に紛れなく御座候ニ付加判仕候 以上 |
同日 真如寺末寺 東福寺
指出
一、男1人 15才以上 御国者
明和7寅年6月3日 御草履取 重助
岩村有助殿
池川貞八殿
右重助儀は宗旨代々真言宗にて当寺の旦那に紛れなく御座候二付加判仕候
五台山末寺 孝山寺
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宗 門 改 |
以下は名前だけである。
一、男1人 禅宗東福寺旦那 伝兵衛
15オ以上 組頭代判
一、男1人 禅宗東福寺旦那 組子25才
15才以上 小八
一、男女27人 御国者 辰右衛門組
内男13人 内11人 15才以上
2人 14才以下
女14人 内11人 15才以上
3人 14才以下
一、男女3人 真宗清宝寺旦那 市郎兵衛家内
内 男2人 15才以上御国者 27才 市郎兵衛
71才 五右衛門
女1人15才以上 同
一、男女4人 真宗清宝寺旦那 長五郎家内
内 男2人 内 15才以上1人 御国者 35才長五郎
14才以下1人 同じ
女2人 内 15才以上1人 同じ
14才以下1人 同じ
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長 山 斉 墓 |
明治の改革によってもキリシタン禁制はとかれず、明治2年(1869)10月高知藩は長崎藩浦上のキリシタン宗徒120人を預ることになり、明治6年(1873)3月ようやく収容信徒を浦上に送還するよう指令をうけている。明治8年11月信教自由の通達が出されるまで禁教令はつづいたのである。高知での伝道が初まったのは明治8年以降であることに間違いはない。明治18年5月に高知教会が設立されているが当時の信徒は21人であったという。各地に講義所ができ宣教師が伝道にあたった。宿毛でも明治28年(1895)頃から民家を借りて講義所が開かれたという。宿毛教会が設立されたのは大正10年である。
城山墓地に明治30年3月20日永眠、長山斉の墓があり十字が刻してある。もう一基は大正10年11月6日昇天野並玄朴とある。これは大方町出身の医者であるという。