宿毛市史【近代、現代編-明治維新と宿毛-大江卓、岩村高俊の脱藩】

明治維新

 江戸幕府は、元治元年(1864)の第一回長州征討に勝利を治めたが、長州の高杉晋作等は藩の恭順態度に飽き足らず下級武士、足軽、町民、農民有志による奇兵隊を組織してその勢力を強め、恭順派に対抗しはじめた。
 幕府はこれをみて再び長州征討の命令を諸藩に出したが、名分が明らかでないと反対する者が多く、特に薩摩藩は出兵を拒絶する態度をとったのである。
 坂本龍馬や中岡慎太郎はこの機会を利用して薩・長二藩の連合を計画し、慶応2年正月薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允を京都薩摩屋敷で会見させ、両藩の軍事同盟が結ばれた。薩長同盟により長州側の士気は高まり、幕府の征討軍を各所で撃破した。しかも将軍家茂はこの悲報を聞きながら慶応2年7月21日大坂城で急死し、代わって十五代将軍慶喜が諸軍を指揮することになったが、征討軍は既に戦意を失っており、やむなく征討は停止され、これによって幕府の権威は失墜し、この反動が薩長を主軸とする倒幕運動となって急速に展開され始めた。
 これら武力による倒幕運動の盛り上がりに刺激され各藩では軍備の充実に力を入れ、それとともに洋式操練を採用し始めた。土佐藩ではイギリス式兵法を用いることになったので、宿毛でも自ら英式操練をしていた。
 これら武力による倒幕運動の盛り上がりに刺激され各藩では軍備の充実に力を入れ、それとともに洋式操練を採用し始めた。土佐藩ではイギリス式兵法を用いることになったので、宿毛でも自ら英式操練をしていた。