宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐大江卓、岩村高俊の脱藩】

大江、岩村通俊・高俊長崎へ行く

慶応3年(1867)9月斎原治一郎(大江卓)岩村精一郎(高俊)岩村左内(通俊)の3名は砲術研究の目的で長崎に向って出発した。彼等は別に宿毛山内家(明治2年伊賀家となる)から銃器買入れの為、七百両余りの金を托されていた。それも今日のように為替などのない時代であったので、二分金と一分銀で渡された金を3人が分担し胴巻きに入れて持って行った。
宿毛から宇和島を通り、佐田岬から佐賀関、豊後、肥前を通って陸路で長崎に着いた。3人が長崎に着いた時は、去る4月20日に讃岐沖で紀州藩の明光丸に衝突され、沈没した海援隊の伊呂波丸の賠償金問題が大詰めにきている時であった。この賠償金の件は10月16日、坂本龍馬の代理として長崎に派遣された中島作太郎(信行)が同じく長崎に出張して来た紀州藩の岩崎轍輔と談判をやり、結果七万両で結着がついた。大江等はこの敏腕家中島作太郎をはじめ海援隊士の多くの知己を得、これが中央に出て活躍するきっかけになったのである。
長崎には「長崎商会」という土佐藩の貿易会社のようなものがあリ、後藤象二郎が商会の振興に努めていたが、後藤が大政奉還運動で多忙になったので、大江達が長崎に着いた頃は岩崎弥太郎が主宰となって経営に従事していた。彼等は伊賀家から頼まれていた銃を多分岩崎の世話で買入れる事ができ、長崎商会の船で岩村通俊が宿毛に運んだ。
一方大江らが長崎滞在中の慶応3年10月14日、将軍慶喜は政権を朝廷に返上した。天下の形勢が大きく揺れ動いている事を肌で感じた若い大江達は、長崎で呑気に時を過している事は本意でなく、中央舞台に乗り出すため、長州の桂小五郎(木戸孝允)に会うことにし、林宇一郎の紹介状を持って、大江卓、岩村高俊、中島信行の3人は海援隊の横笛丸に乗船して長崎を出発した。