宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐高野山の義挙】

大江・高俊高野山の義挙に加わる

王政復古の号令は慶応3年12月9日に発せられた。その日公卿・有力な諸侯とその重臣等が小御所に参集し、天皇の臨御を仰いで新政の大綱を議定した。その会議で徳川氏の処分について激論になった。山内容堂は朝廷が徳川慶喜をこの会議から除外し、政権返上の誠意を無視し、これに処分を加える事に抗議したがいれられなかった。
この不満は徳川氏の従臣や譜代大名にもあってその人たちは二条城に集合した。慶喜は暴発を恐れて大阪城に移ったが、京都と大阪との対立は深まっていった。その前日すなわち三浦休太郎襲撃の翌12月8日の夜、薩長と幕府の衝突を予期し、御三家の紀州と大阪をけん制するため、鷲尾隆聚侍従に率いられた大江卓、岩村高俊ら陸援隊70人は、土佐藩白川邸から十津川浪士という名目で高野山へ向けて出発した。以下『大江天也伝』によってその大要を述べてみよう。無事関所を通過し、高野山に着くと、まず僧徒を説得し、一方では紀州藩に対し、高野山出兵は勅命によるもので、王政復古の令に従わない軽挙の輩を鎮撫するのが目的である旨の書面を高野山の僧徒に托して通告した。
16日には紀州藩から木村彦右衛門と二木弥兵衛が「高野出兵の理由はよくわかった」という返書を持って来た。そうして勅書や侍従の達書が四方に発せられ、十津川郷士をはじめ各藩の勤王の士が高野山に集り、20日頃には総勢3、400名になり、22日には諸隊の編成をして陣容を整えた。しかし大江卓、岩村高俊はまだその才能が認められておらないため、地位は共に斥候であった。