宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐高野山の義挙】

大江錦旗受領の大任を果たす

ところが万一の場合に備えて是非共錦旗を奉戴していなけれぱならないという事になりその大任が大江にくだった。これは地位の低い斥候であったことが幸いして抜群の功をたてるきっかけになったのである。
大江は12月26日に下山したが、その時旅費として2両しかもらえなかったので、27日大阪に着き、宿毛出身の立田強一郎(後の小野義真)に会い、金を調達して高野山へ送ってくれるよう依頼し、28日京都へ着いた。
直ちに正親町公薫卿に会ってその旨を伝えたが、鳥羽・伏見方面はまさに戦火があがろうとする状勢に加えて、年末年始の多忙の時であったので錦旗下賜が手間取り、明けて慶応4年正月3日やっと参内して綿旗並びに2通の勅書を受け取った。1通は鷲尾卿、もう1通は紀州藩宛のものであった。
しかしその時には既に鳥羽・伏見方面で戦いが開始されており、錦旗を持っての通行は危険だと考えた大江は、かねて出入していた刀屋の為助を雇い、錦旗と勅書を浅黄の大風呂敷に包んで背負わせて従者とし、自分は医者に変装して正月4日の朝京都を出た。
本道は危いので清水越を経て間道を抜け、やっとの思いで6日の早朝高野山へ帰り着いた。綿旗は高野山にひるがえり、士気を更に鼓舞した。高野山隊は薩長連合軍が京都で政局を転換しやすいように、紀州その他をけん制するのが目的であったから戦うことなく任務を終ったのである。
鷲尾侍従は、錦旗及び勅書受領の大任を果たした大江の労を高く評価して感状を与え、さらに短刀一振と金一封を贈った。
   感状および目録
今般
 勅書並錦旗等下し賜の節、其方経艱難之地、無事高野山陣所迄奉じ帰候段、頗不耐感賞候、依之目録之通、差遣之候。尚又此上可抽忠勤者也。

大江卓への感状
大江卓への感状
  慶応4年戊辰正月    侍従
   斎原治一郎殿
一短刀   一腰
一金     一封
   己上