宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐高野山の義挙】

紀州藩説得

なお大江が京都より持ち帰った勅書は「大阪城の兵が伏見の方にもでてくるので高野山の兵は速やかに大阪城を乗っとれ」という内容であリ、高野山に兵を挙げたのは、もともと紀州藩をけん制することであったが、この際紀州藩を朝廷側に引き入れる事が大阪城攻略にも必要であり、そのため大江を使者として、紀州藩の説得にあたらせる事になった。
大江は藤村四郎と同伴で、紀州中納言への御沙汰書を持って高野山を下り、7日朝岩手駅で紀州の藩兵に銃を突きつけられ阻止されたが、勅使である旨を伝え、隊長鈴宇平太が本藩へ連絡することになり2人は岩手で一泊した。
8日朝伊達五郎、木村強一郎と紀州軍事奉行野口将監がやって来たので、大江は勅書の要領を述べ、兵一大隊を高野山に出して官軍に協力する事を勧めた。とにかく紀州藩も勅書の趣きを受けるという返事なので、同行の藤村はその報告のため高野山に帰った。大江は直接紀伊中納言に勅書を渡すため1人残留した。
当時紀州藩は討幕に藩論が一決していたわけではなかった。御三家の一つであり、殊に有力な地位にある連中がほとんど佐幕派であり、藩論をまとめるのに苦慮していたのである。翌9日の夜になって、野口将監が再びやって来て和歌山入城を許すというので、大江は単身野口将監に従って城下から一里ばかり手前の紀伊国造の邸に宿泊することになった。
勅書の趣旨は藩において了承した。中納言は病気でお会いする事は出来ないが、自分はただちに高野山に赴いて、侍従の指揮を受ける。(『大江天也伝』)と国家老鈴木三右衛門が大江の宿を訪れて語った。そして鈴木は木村強一郎を伴って高野へ行き、伊達五郎は紀州藩奉勅の事情を京都に奏上するため上京した。
ところが紀州藩の態度は大江に対しては、勅意を受けるといいながら兵を出して鷲尾卿を助けようとしないし、大江が盛んに出兵を迫っても言を左右にして実行しようとしない。大阪の敗兵が盛んに和歌山に入り込んで来るようすは、大江が宿にいてよく見える。そこで野口将監を呼んで、「貴藩が勅意を奉ずると決したのなら、なにゆえ幕兵を討たないのか」と詰問すると「紀州は徳川の親藩中の親藩であるから、情誼上幕兵を討つことは出来ない」ということで態度がにえきらなかった。
正月11日大阪方面でごう然たる一大音響が起った。それが和歌山近郊にいた大江の耳にまで響いた。あとでそれは大阪火薬庫の爆発であることが分った。この爆発は大阪落城を意味するものであり、ここで紀州藩も藩論が一変し、大江を城下の使者接待所に移して歓待しはじめた。
12日久能丹波守が来訪したので、大江はここではじめて勅書の写しを彼に渡した。
13日に、平塚勘兵衛が一中隊の兵を率いて来たうえ、千両の軍資金を高野山に贈ることになった。そこへ高野から藤井鉄郎・光野数馬が来て大阪の形勢を語り、鷲尾侍従は10日に高野の兵を連れて大阪に向った事を連絡した。大江はその日紀州藩一中隊を引率して14日に大阪へ着陣した。

大江天也(卓)
大江天也(卓)

大江が紀州を去る時、紀伊中納言は彼に一挺のピストルと金一封を贈ったが、帰京後、鷲尾卿の許可を得てこれを受納した。
高野山の一挙は戦わずして終ったが、徳川の重鎮である紀州藩の出動を抑えることができたし、さらに大阪を制することができたということで十分にその効果があったといえるだろう。
大江が僅か22才の青年で、公卿の間に出入りし、大藩の要職にある人々と接した事は、彼の人生において修練の場となった。大江が後年紀州藩と切っても切れない因縁を結んだのも、この時の交情によるものであった。伊達五郎・三浦休太郎・陸奥宗光等との交友は、後に大江が政界へ雄飛するための後援力になった事も事実であろう。