宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】

宿毛機勢隊編成までの動向

土佐藩は慶応4年正月11日鳥羽・伏見の役に徳川軍に参加した讃州高松・予州松山城攻撃の命をうけ錦旗を下付され、家老深尾丹波を総督、板垣退助を大隊司令とする迅衝隊が高松城を攻め、家老深尾左馬之助を総督とする部隊は松山城へ出撃し、27日松山城へ入城した。両藩とも恭順の意を示したので、戦火を見る事なく無事平定した。
大江が高野山の義挙から京都に帰ったのは1月25日であった。時勢の流れをいちはやく感じとった大江は、主家が勲功をたてるよい機会であるので、直ちに宿毛兵の出兵を計画した。『大江天也伝』には次のように書かれている。「大江は高野山一挙によって深く浪士の大事に任ずべからざる事を悟った。というのは浪士は気慨があって単騎よく敵を刺すことは出来るが、組織的な軍隊的行動に適しないから、これからはどうしても団体的訓練を施した兵でなければ役に立たぬ、で大江は彼が在国中、洋式兵法(宿毛の文館、のちの「日新館」で学生当時英式兵法を採用しており、宇和島に派遣され英式銃隊の操練を学んだ)によって訓練した二中隊ばかりの兵があるので、その新兵を率いて上京し、鷲尾卿にこれを統率させて東征軍に加わることを説いたのである。幸い賛成してくれたので、後藤象二郎に談判して高知の重役に宛てた依頼状を受け取って帰国することになり、2月15日高知に着き、宿毛邸で竹内綱・林有造らの同郷人と合議し、伊賀陽太郎にも説くことができ、一同は喜んで大江の策に賛成したが、藩の執政深尾丹波に拒否された大江は、山内容堂公に会って直接談判しようと考え、林有造と同行して再び上京することに決めた。」
一方、『林有造翁獄中記』によると、
「明治元辰年正月8日、中村進一郎(重遠)が高知より帰り、京摂方面の戦況を報告した。
そして林有造等に対し、有志数名を戦地へ出すべきである。万一後日になって主家が兵を出すようになった場合、先に戦地を経験しておれぱ大いに役立つであろうと説いた。
同月10日の夜中村進一郎・岡添行蔵・近藤喜馬太・石河小七郎・林有造の5名は「堂前」に集り、伊賀家の将来について話し合った結果、やむを得ず明11日に宿毛を脱走し、京摂に行き板垣退助を説得して東征軍に加わり、万一主家が兵を出すようになった場合、大いに役だとうと決議した。

伊 賀 陽太郎
伊 賀 陽太郎

一方伊賀陽太郎は京摂の報を聞くと12日に高知へ向けて出発することになり、随行者として供頭竹内綱と近習林有造、医師1名、ぞうり取の4名が命ぜられた。
急な事であリ、有造は脱藩することによリ、主君に迷惑をかける事を恐れたが、兄通俊の力添えにより、前述の中村・岡添・近藤・羽田鹿弥4名の許可がおり、そのうえ、4名に英式銃一挺ずつ与え励まされた。4名は13日には板垣の軍に加わることができた。」
有造は、陽太郎に随行し、12日に宿毛を立ち14日に高知に着いている。この高知滞在中のでき事として、林有造は松山城攻略に先立って松山斥候に行っている。
「明治元年1月11日、松山征討令が土佐におリ、家老深尾左馬之助が総督となり、1月21日に1,500名の土佐兵を連れて高知を出発、27日に松山城下に進駐したが、これに先立ち参政金子十郎、大軍監小笠原只八が1月23日松山に入り、松山藩に対して恭順勧告書を提出して平和進駐を行なった。
有造は1月22日に高知を出発し、2月1日高知に帰った。」
(土佐史談124号橋田庫欣「林有造松山斥候の記録」による)
松山斥候よリ帰って、2月15日京より帰国した大江らと宿毛邸で宿毛兵の出陣について合議し、藩の執政深尾丹波に上申したが容れられず、山内容堂公に直接談判しようと考え、大江・林の両名は箒丸という蒸汽船に乗リ込んで2月19日の夕刻浦戸港を出発したが、その夜風波が強く船は再び浦戸に引き返した。暴風雨はその後も続き、23日になって藩主山内豊範が堺事件謝罪のため上京する汽船があリ、宿毛の書生である2人は、到底藩主と同船する事はできないので、大江の知己である伴修吉が小監察として藩主のお伴をしていたので、ひそかに船底の中にひそんで翌日神戸に上陸することができた。『大江天也伝』によると、
「大江、林は直ちに京都へ行き、宿毛兵の出動を容堂公に建議したが、出兵は穏当でないというので許されなかった。が伊賀の嫡子陽太郎の上京を許可し、やがて陽太郎を擁立して東征軍に加わることを許した。そこで林はこの旨を郷里宿毛に報告するため急いで帰国したが、林の運動は思わしくいかず宿毛兵の出兵は手間取り東征の軍はどんどん進んでいき、このことは失敗に終った。」
中村進一郎は近藤謙二郎らと本藩から松山城攻略に行き、その後東征軍に従い江戸に出たが、江戸から帰って戦況を報告すると共に伊賀氏理に宿毛兵の出陣を勧めたが聞き容れられなかった。