宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】

宿毛機勢隊出軍当時の北越方面の戦況

宿毛機勢隊が出発した当時、東北方面、特に越後長岡藩の奇傑河井継之助の活躍と会津や米沢の援兵で、北越諸藩の抵抗が強く、官軍も苦戦を重ねていた。土佐藩は北越方面への援軍出兵の督促を受けていたが、財政困難を理由に足踏みしていた。今市から帰国した谷守部や、参政由比猪内の努力によってようやく出征部隊の編成を完了した。すなわち総督が前野久米之助、大軍監が深尾三九郎で兵員は633名、7月2日高知を発して陸路をとって同11日京都に到着、同16日天皇の閲兵をうけて越後に向った。伊賀陽太郎、竹内綱、林有造等一行5名は同22日中の河内において、この本藩兵と合流し、諸事隊長並みに取扱われる事になった。天候不順、地勢険悪の為、行軍に困難しながら8月22日ようやく越後黒川に到着し、これから軍を二分し、一軍は深尾三九郎が指揮して米沢口に、一軍は前野久米之助が指揮して村上口から荘内方面へ進発した。
米沢口に赴いた一隊は沼村砲台を落し、9月11日米沢に着き、会津攻囲軍に参加した。
村上口に進んだ隊は、26日中浜駅で越前兵を助けて始めて交戦状態に入ったのである。当面の敵荘内兵を追って鼠ヶ関に迫った。

鼠こう岩の戦跡
鼠噛岩の戦跡

鼠ヶ関は海に臨んだ嶮岨の要害で、敵も奮戦、力を尽したため遂に夜に入っても勝敗が決せず、やむなく中浜に撤退、岩鼻を守備し、近くに砲壘を築いて数日間、戦機の熟するのを待った。9月1日官軍は薩摩、越前、新発田の諸藩兵を整え、山手及び浜手の二道より大挙鼠ヶ関を襲撃した。しかし敵は地の利を得て縦横に発砲するので、官軍側は死傷者続出し(土佐兵死亡9人、負傷11人)しかも日没になった為、遂に破ることができず撤兵し、又数日間両軍対峙の状態にあった。
宿毛機勢隊が新しく戦場に到着したのは、このような状況下の9月7日であった。機勢隊は9月11日山道の官軍に加わって岩国兵と共に雷村砲壘を攻撃し、同日薩摩高鍋の兵は関川村を、薩兵及び福知山、新発田、村上、越前の混成隊は小名部村に進み、関川、雷村砲壘は完全に官軍の手に落ちた。此の一戦の後、機勢隊は関川の守備を命ぜられていた。
関川は荘内南方の要地でこれを官軍に占領された事は、短刀をのどに突き付けられたようなものである。それで敵もこれを奪還しょうと鋭意努力し、9月16日には逆襲してきたが、機勢隊は岩国兵ほか友軍と共に防戦に努め、遂にこれを撃退した。同20日敵軍は再び大挙逆襲してきたが、機勢隊は善戦健闘、遂にこれを撃退して殊勲をたてた。
                        (『村上口進発記』)
以上宿毛機勢隊が北越に出兵した当時の土佐藩兵の進軍状況の概略を述べたが、機勢隊の動向について郷土資料を基にして述べてみる。