宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】

宿毛機勢隊の活躍

17才で一兵卒として機勢隊に加わった小野梓(伊賀家日記では小野一)の伝記によれば次のとおりである。
「慶応4年7月小野は機勢隊に加わり高知に出て、本藩の兵と共に大阪・京都を経て、北陸に赴くこととなった。越後口に向った土州軍の進軍日程は、8月16日夜新潟に着し、18日夜そこから乗船して19日新発田に着し、22日新発田を発し、黒川に至り、途中で分れて1隊(二ヶ小隊300人)は米沢口に向い、他の1隊(二ヶ小隊347人)は村上口(荘内方面)に向った。
小野は村上口に向った軍団に属していた。
8月16日、小野の属した村上口攻撃軍は中浜駅に至ったが、この時荘内藩の軍は雷村、鼠ヶ関、高畑越、小俣村、関川等羽越国境の要地にたてこもって防守し、西軍をなやますこと一ケ月に及んだ。この日土佐軍は越前軍と共に鼠ヶ関の東軍に迫ったが、戦いに利がなく退いた。

伊賀氏の小旗
伊賀氏の小旗

9月1日に再攻撃を試みたがそれも失敗に終った。11日には薩長及ぴ高知藩の兵が関川に、土州・岩国の兵、各々一隊が雷村に向ったが、後者は険難の地勢にはばまれて退却しなくてはならなかった。小野は無論軍中にあったが、同じ隊の者が病気にかかって一歩も歩けないといいだしたので引きあげることもできず、溪間の洞に入って一夜をあかしたが兵糧の貯えがなかったから腹がすいて仕方がなかった。ちょうど岩国の兵隊も引きあげて来たので、その隊員が持っていた餅をもらって飢えをしのぎ、朝になってようやく本隊に会うことができた。けれども山を下った岩国兵の一部隊と関川を破った西軍が背後から雷村を襲ったので東軍は遂に退却した。この戦いで機勢隊の西尾純蔵・岡添助四郎が負傷している。
その後、16日と20日とに2二度東軍は関川を逆襲した。20日には関川で敵の逆襲を受け苦戦をし、廣瀬脩が戦死をし、中町兼吾、沖大次が負傷した。戦利品として、釆牌1、旗1本(日の丸)、灯燈1張、刀3本、脇差4本、砲3丁、弾薬箱4棹、酒1丁、首3級。その一つは、報国隊13番隊長武藤半蔵(知行400石)の首であった。
                          (『北越懸軍誌』)
恩賞の目録
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