宿毛市史【近代、現代編‐土佐挙兵計画-征韓論】

征韓論

明治政府を大きく分断し動揺させたのは征韓問題であった。明治政府は明治元年11月国書を韓国に送り修交を求めたが、その修交使節を拒否したり、時には侮辱の言動を加えて使節団を憤慨させた。こうした状勢の中で、政府部内も武断派と文治派とに分かれ、対韓問題をめぐってしだいに溝を深めていった。
征韓派は三条実美を推す西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平の五参議であり、反対したのは岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允、大木喬任、大隈重信の四参議であった。
明治4年11月10日岩倉、大久保、木戸ら文治派の人々は欧米諸国歴訪へ出発したが、その不在中に西郷隆盛、板垣退助を主軸どする武断派の征韓論が急速に高まった。征韓論者の意中は、韓国政府の非礼に対する不満が直接の原因であったが、維新後の改革に対する失業士族の不平を国外に発散させ、国内不安を解消しようとする政治的意図も含まれていた。
西郷は「平和談判の全権大使を派遣して韓国政府の対日政策について反省を求める。しかし現在の韓国政府はそれを受諾するとは考えられないし、むしろ危害を加える可能性が強い。そうなれば出兵の名分がたつ。その全権大使に自分が当たる」というのが主張であった。
板垣、西郷の征韓論に対し、中村進一郎、陸奥宗光、中島信行、大江卓、岩村高俊等は武人の勢力が増大するのを恐れて征韓論に反対し、先に欧米視察に行っていた木戸孝允を推すのがよいと考え、日夜奔走の結果賛成を得、岩倉の帰朝の後にこれを主張しようとした。
一方征韓論者の中にも、西郷全権論に反対者もあり、副島種臣は自分が全権大使になることを主張したが、西郷の決意を動かすことはできなかった。
明治6年8月17日の閣議は、西郷を遣韓大使とすることを決定、岩倉の帰朝を待って発表することになった。
約2年にわたる欧米歴訪から9月13日に帰国した岩倉は、10月13日の閣議に出席して、我が国は文化向上を目指すことが急務であり、外国とことを構える時期ではない。今兵を動かして朝鮮と交戦すれば、その間に露国は南進し、内政干渉の口実を与えることになりかねない等々で反対した。
閣議は両派に分かれたまま翌日再開されたが、征韓派は三条太政大臣以下五参議で、反対派は岩倉右大臣以下四参議であり、1票差で征韓派が優位にたち天皇の裁下を受けることになった。17日の閣議には反対派は出席せず、征韓派は18日三条太政大臣の責任で天皇の裁可を求めることを決議したが、三条は事の重大さを心痛し病に倒れた。20日になって岩倉右大臣が三条に代わり政務を代行する勅旨を受けた。岩倉は22日に閣議を開き、征韓派の主張を認めず、内定していた遣韓大使派遣の議を否決したのである。
征韓派の激しい抗議にも岩倉は頑として耳を傾けようともしなかったので、翌23日に西郷参議が辞表を提出し、板垣、後藤、江藤、副島の四参議もこれにならって辞表を提出した。
板垣退助は西郷の帰郷に先だち、一夜その居を訪れて民選議院設立の建議に賛成してもらおうとしたが、西郷は「あなたの意見は出来ない事はないが、今の政府に言論をもって争っても仕方がない、むしろ実力で政権を奪い、それから民選議院をつくるべきだ」(『明治10年土佐挙兵計画の真相』)といった。
副島種臣、後藤象二郎、板垣退助は野に下ると、翌7年1月民選議院設立の建白をしたが入れられず、種々不平をいだくこととなった。板垣は高知に帰り、片岡健吉、林有造等と立志社をつくった。これが後に西南の役当時、土佐拳兵計画の本拠となったのである。