宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-林有造と西郷隆盛】

林有造鹿児島へ

征韓論に敗れて西郷が鹿児島に帰り私学校を興し、将来の日本に活躍すべき人材の養成に努めているうちに、薩摩の動静は日に日に切迫する様相を呈してきた。西郷果たして兵を拳げて中央政府に迫るかどうかの問題は、当時、我が国における人々の関心事であった。
それに最も注目したのは板垣一派の土佐人であった。板垣はその腹心林有造を鹿児島に潜行させ、西郷の動静を探るよう命じた。林有造は明治7年1月13日東京を出発した。その時副島の口添えを容れて佐賀の山中一郎を同伴した。また司法省の三等出仕をしていた樺山資綱が鹿児島に帰るというので同行を承諾し、3人が横浜で落ち合い乗船したが、船客の中には佐賀に帰る江藤新平、香月桂五郎、それに海老原穆という鹿児島県人らがいた。15日神戸着、そこで船客一同は厳重な取調べを受けた。これはあとでわかったことだが、13日夜岩倉具視が赤坂喰違で要撃された事件のためであった。そのため一旦大阪に出て長崎通いの光運丸で長崎に着き、茂木浦から林、山中、樺山ら鹿児島に行く人が和船を仕立て市来港へ上陸した。