宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-林有造と西郷隆盛】

林有造、西郷隆盛と面談す

鹿児島でのようすは『旧夢談』(林有造著)によれぱ、次のようである。
「自分はまず篠原を訪い、西郷のようすを聞いたので、ほぽ事情を知ることができた。その頃、桐野は吉田村の開墾事業で鹿児島にはいなかった。江藤や香月らはたびたび西郷を訪ねたが、西郷はいつも留守だといって会わなかった。自分は樺山が西郷に会ってもらって、彼から西郷の意中を聞いてもらった方が一番くわしい事がわかると思ったので、一度も西郷を訪ねなかった。
すると或日のこと樺山が自分の所に来て、『西郷があなたに会おうと云っている。同行の人々には留守だと云って誰にも会っていないので秘密にしてくれ』という話であった。で私は、『私は西郷の顔は見ないでよい。会えぱどうせ同行の人々に洩れるに違いない。私としては誠に相済まぬ事であるから、まずお断りを致しておこう。』と云った。すると樺山の云うには『自分は西郷さんと約束をして来たのであるから、それでは私が困る。西郷さんは、今篠原の所に来ておられる。あなたを待っておられるのであるから、ぜひ来てもらいた。』と云って聞かない。私は『私が鹿児島に来たのは西郷と議論をしに来たのではないのである。ただ西郷の意志がどうであるかを聞きに来たのであるから、それはあなたに聞いてもらった方が一番早わかりがすると思う。』と云って再三固辞したけれども、義理堅い樺山は西郷と既に約束をして来たのであるからと云って聞かないので、とうとう私は樺山の案内で篠原の宅を訪れた。
行って見ると、そこには篠原はじめ西郷幕下の諸将が大勢集っていた。そして何やら密議をこらしているようであった。篠原の家というのは8畳の間があって、その次に4畳の間があった。その4畳の間に西郷以下7、8人も集っていたようすであった。
私は樺山に案内されて、庭先から8畳の間に通った。すると西郷は奥から出て来て8畳の間の床の少しばかり下手に坐った。私はその時、今日は決して議論をしないつもりでいた。それは私が議論好きであるので、議論に花が咲いてはようすを知る事ができ難い。で一切論じないという積りで西郷に向ってひととおりの挨拶をした。
ふたことみこと挨拶を取り交して居る間に、どうしたわけであったか、又どういう話のゆきがかりであったか、私は『この政府というものは誠に困ったものでござるネヤ』と何の気なしに言ったのである。するとこれを聞いた西郷は、何と思ったものか、突然スッと立ちあがり、ツカツカと私の前に来てドスンと坐った。そして威儀を正し、厳然として私に云った。『只今、あなたはこの政府は困ったものであると云われたが、それはどういう意味でごわすか。』と詰め寄ったのである。
私はハタと詰まらざるを得なかった。これは何とした訳であろうか、少しばかり間を置いて私も負けずに言った。『あなたは現に陸軍大将にして参議ではないか、且つ近衛都督という重大な職責を持っておられるではありませんか。それを自分の意見が容れられないからといって勝手に職をむなしゅうして国へ帰るという法はない。その不届千万なあなたを維新の元勲西郷であるからといって罰することができないというのは、何たる不心得であるか。政府は国家権力の集中する所である。その政府の威令がかくまで行なわれぬということは、誠に困った事ではないカヤ。』と論じた。
西郷は両手を拳げて頭を抱え『ハハゝゝゝ』と天地に響く大笑をして元の座に帰り、それから非常に親しく話をしだして色々の事を打ちあけた。私は今だにその時の西郷の心持ちを計る事ができない。人の荒肝を取ろうというのであるか、それとも他に意味があっての事であったか、到底私等の考え及ぶ所ではない。
いろいろと話をした中に、自分は次のように述べた。『今日の形勢はもはや1日も猶予する事はできない。で自分等は兵を土佐に挙げて、直ちに大阪鎮台を衝き、京都に攻めのぽろうと思うのである。あなたは鹿児島の兵を率いて熊本城を落とし、一方兵を分って馬関に上陸し、一路中国を攻め上られたならば、天下の志士は翕然としてあなたに集まる。一挙にして天下の形勢を制する事が出来るであろう。』と論じたのであるが、西郷は黙々としてこれに答えなかった。そしてやや暫らくの後、おもむろに口を開いて云った。『木戸は私を殺そうと思っている。どうしても政府は薩摩をやっつけようと思っているのである。土佐と薩摩がいっしょになって事を起す時には、政府ではそれができない。であなたは板垣に相談して西郷を縛って下され。』という話であった。西郷という人は妙な事をいう人である。だから板垣にすすめて木戸に鹿児島征伐をさせて呉れろという意味である。自分は不審に思って『あなたを縛るのは易い事であるが、それから先はどうなるのであるか。』と尋ねた所が、西郷は胸のあたりを指さしながら『そこまでくればその後の事は私の方寸の中にごわす。』と云った。そこで自分は西郷をなじった。『あなたは何でも薩摩の一手を以てすれぱ天下の事成らざるなしと云うお考えのようであるが、それは余りにも自信に過ぎているといわねばならぬ、凡そ兵家の事は驕慢を戒むるにある。薩一藩を以て天下を動かすに足るという自信は結構であるが、更に同志があるならぱこれと結び、東西相応じて策の万全を期するのまされるに若くはない。優柔不断、あのような政府に対して、板垣を始め土佐人士は袂を払って起つの気慨を持っているのである。この際は宜しく薩土連合の勢力を以て政府に当るのが良策ではあリませんか。』と自分も熱心に説いていった。しかし乍ら西郷は遂に明答を与えなかった。西郷の考えでは、木戸は薩摩を攻めようとする気持があるけれども、これを決行できないのは、一に土佐の応援を恐れているからである。でこの際土佐が局外中立の意向を示したならば、木戸は必ず薩摩征伐を断行するであろう。その時は西郷の方寸によって事を決しようというにあったらしい。で色々話をした結果、薩土連合の契約は成立しなかったけれど、自分は西郷が万一の場合には断然兵を挙げる意志のあることを確かめることができた。
その時に西郷は突然『貴県で事を挙げるとなると同志はだれらですか。』と問うた。
自分は直ちに筆紙を借りて、
  林有造、大江卓、片岡健吉、岩神昂、谷重喜、池田応助、竹内綱、山田平左衛門
  佐田家親、岡本健三郎、大石彌太郎、中村貫一、川村矯一郎、藤好静、松村克己
と書いた。西郷は一応目を通して『君は自分の名を一番先に書いたがなぜか。』と尋ねた。
自分は『土佐において事をなすに林有造の右に出る者はない。』と返答し、ついで西郷に向って『薩摩には野にある者、官にある者、色々あるが、その中でおも立つ者を書いて下さらぬか。』と云った所が、西郷は筆を持って紙片に「芋連」と書いた。そしてその下に西郷、桐野、篠原、櫛部等5、6人並べて書いた。それから「腐れ芋連」と書いてその下に、大久保、川路等3、4人の名前を書いてくれた。この書附けは自分が携えて帰って来たが、いつか紛失したものと見えて、その後私の手元には残っていない。」
この西郷との対談の中で、のち立志社挙兵計画に際して、有造が考えていた計画の一端が表れている。
西郷の態度が大体わかったので有造は薩摩を引き揚げ、熊本から肥前に出て、更に佐賀で江藤新平に会い、東京へ帰っている。