宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-佐賀の乱と江藤新平】

林有造、江藤新平との会談

林は西郷を訪れた後陸路で博多に行き、乗船するつもりだったが、米津で佐賀の山中一郎に会い、米津から茂木(長崎)に渡りそこで江藤新平と会った。佐賀では島義勇の憂国党に征韓派が同調して挙兵寸前の状況であった。江藤はその状況を語り、「自分の力では既におさえる事はむずかしい。よくこの形勢を察知して土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい。」といった。林は西郷の心境を伝え「今佐賀で兵を挙げても西郷は動かないだろうから自重してもらいたい」と話し「佐賀や薩摩の一角で少数の志士が兵を挙げても、熊本、大阪の2城をとらない限りは成就しない。西郷は私の意見を聞いてくれないので、薩摩と連絡することは不可能であるが、せめて事を挙げる時期だけは3方共になしたいものである。土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重して、憂国党の青年を押さえて動くことのないよう注意してもらいたい。」と勧告して別れたが、その夜江藤は林を訪問し、林の実弟岩村高俊が佐賀県令になり、熊本鎮台の兵を連れて来県するという情報を伝えた。
 『林有造自歴談』によると、
「江藤氏が尋ねて来て、『島義勇が来て云うには、岩村高俊君が県令の職を奉じ、飛脚船で下関に上陸、直ちに熊本鎮台の兵を連れて佐賀県へ入るだろうと。島君は同志であり、県令高俊君は君の弟だが、どう思うか。』『私達兄弟は志が違っている。兄通俊が県令になっている事は知っているが弟が県令になった事は知らない。君は私を疑うべきではない。』といい、更に『県令が任地に兵を引率してやって来るとは、納得出来ない事で、内外の識者の物笑いになろうが、高俊は兵事に慣れているので油断しないように』と注意して江藤と別れた。」(県令は権令が正しい。)