宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-佐賀の乱と江藤新平】

江藤新平の幡多潜行

岩村礫水旧居の碑
岩村礫水旧居の碑
3月15日宇和島上陸に先立ち、追捕の網を逃れるためには、多人数での通行は危険であるので、3組に別れて行動し高知で落ち合う事にした。どの組にも香月桂五郎、山中一郎、江藤新平というように林有造と面識のある者を入れていたのは、潜行について林に期待を持っていたことを伺うことができる。しかも川崎村から四万十川上流をのぽれば道も近く、潜行しやすいのに2組が川に沿うて下っているのは、林の故郷宿毛で林の模様を聞くためであったかも知れない。
宇和島で早くも警吏の尋問を受けた。東京の商人加藤某であると偽称して難を逃れたが、身の危険を感じ、その夜のうちに宿を抜けだして土佐に向っている。
山中組の山中一郎、中島鼎蔵、横山叙臣は、松丸で捕吏におそわれ、大血戦となったが、やっと逃れることができた。この騒ぎで中島を見失い、山中、横山の2人は四万十川を下り、中村に出て東へ行き佐賀谷の橘川で警吏に捕まり、直ちに高知へ送られた。
香月組の香月桂五郎、中島又吉、横山節里は、吉野町を経て十川村、昭和村、大正村を通り窪川の海岸で山中らに別れた中島と偶然会い、船で浦戸に3月22日に着いている。その夜香月は片岡健吉を尋ね、同行して永国寺町の林を訪れ密談をした。林は自首を勧めたが、翌日阿波へ渡るべく小舟を雇う相談をしている所を捕吏羅卒が踏み込み、内務省よりの手配写真を証拠に捕縛された。
江藤の組の江藤新平、江口林吉、船田次郎は、宇和島から江川の権谷に出、そこから炭舟で津の川経由で中村百笑の吹越に着き、宿毛へ行き、有造の父岩村礫水に会っている。恐らく林の帰郷を尋ねたのだろうが、折あしく林は高知に居て会うことができなかった。宿毛町大江吉美談に「余の宅は岩村礫水翁の宅と筋向いであり、明治7年江藤先生が岩村邸に宿泊せる事を聞いている。」
平田町の小島三郎氏談に「私の父小島順太から何回も聞いた話であるが、江藤新平らが宿毛の林さんの所へ尋ねて行ったけれど、林はいなく、かくまってもらえなかったので、引き返して私の家へ泊った。私の祖父小島正和は江藤らを泊めてもてなした後、翌朝貝ヶ森のヘンコ横の道路まで連れて行き、道を教え逃がした。」という。
このようにして江藤一行は宿毛から平田に入って1泊し、平田から山に入り、貝ヶ森付近を通って三原の狼内を通り、伊豆田峠に出たのである。
江藤一行は3月20日伊豆田峠天子ヶ森のお市の家で、猪の肉のもてなしを受け、津倉渕より中村の漁師阪井久吾の舟で竹島へ渡してもらい、伊屋(現在は双海)で1泊、舟で佐賀に立寄り24日桂浜に上陸、桝田屋旅館へ投宿し、やがて稲荷新地の此君亭こと川崎十郎の世話になった。その夜、片岡健吉邸で、林有造も来て会談した。
江藤が「林君よ、自分は以外にも早く破れたり」と話しかけたのに、林は「薩摩よりの帰途江藤君に会い、薩摩と土佐がたつまでは、隠忍自重するように勧めたのに甚だ残念である。神戸に着いて君の挙兵を聞き、上京後敗戦を聞いた。あまり早いのに驚いている。高知県は実に警戒が厳重で、山中、横山は20日佐賀で、香月他3名は22日高知で捕縛されたとの事である。一旦兵を挙げて敗れる時は賊名を免れない。故に香月にも自首を勧めたのであるが、江藤君、君は敢えて僕等の言によって進退を決する人ではないがよく考えてくれ、と暗に自訴を勧めた。(土佐史談55、上岡保次郎「江藤新平播多潜行」及び橋田庫欣資料による)


甲浦で捕縛される
江藤はその夜、東京へ行く決意をし高知をたったが、甲浦で番人に見とがめられて戸長役場に連行され、副戸長らは県庁に急報し、江藤らを同地の富豪三井権七方に宿泊させた。
結局、江藤主従であることが判明し、捕吏の手におちたのである。高知に護送された江藤ら3人と他の6人は共に須崎から軍艦竜驤で佐賀に送られ、江藤は40才を以て処刑された。