宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-土佐挙兵計画】

西南の役おこる

征韓論争に起因し、政府の政策に対する不平士族は、佐賀の乱、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱となって爆発し、主謀者が厳罰に処せられても士族の反政府運動は治まらなかった。
土佐立志社の人々は佐賀の乱の時も江藤新平に同調せず、相つぐ士族反乱にも反応しなかったのは、指導者板垣退助が立憲政治実現を目指して血気にはやる人々を抑えて来たことと、土佐の内部的不統一という事情等があリ、なかなか実力行動にでられなかったのである。
西郷の身辺や私学校に対する政府の警戒の厳しさに刺激された壮士達はたまりかねて憤起、明治10年2月14日西郷を擁して実力行動に移ったのである。
西郷の挙兵は大久保の支配的地位を覆えす好機であり、政府内での大久保と木戸の離反を目指す土佐反乱計画の背景となった。
西南の風雲動くという報を聞いた板垣は、東京の自宅に後藤象二郎、林有造、大江卓、竹内綱、岡本健三郎らと会合して対策を協議した。林は「雁の味がするぞ」(痛快の意)と叫んだという。『懐旧談』(林有造)によると「これ実に天与の好機会である。この機会に於て後藤の窮境を救い、彼をして乾坤一擲の大芝居を打たしめねばならぬ。」と心密かに考え、林は銃器、弾薬の運動に着手し、大江は後藤、板垣、陸奥宗光の間を往復して奔走した。
その頃陸奥の屋敷が木挽町にあり、そこへ板垣、後藤、陸奥、岩神、林、大江等の有志が集り、民選議院設立の事について話し合い、まず京都で木戸を説き、鹿児島征討の勅令を請願する事にし、これに後藤象二郎が京都に行き運動することになった。
土佐の同志を集めて、軍隊を組織するのは板垣が責任者となることにし、両者が連絡をとり合って時機を待ち、事を挙げようという方針を決めた。
そこで後藤、板垣、林、岩神、大江等は2月14日横浜から東京丸に乗って西下し、神戸に上陸した。
この時、京都での動きについて『土佐百年史話』によると、
「神戸に上陸した一行のうち、後藤象二郎は林有造、大江卓とともに京都に出て、17日木戸孝允を訪問し、鹿児島征討の閣議を速やかに決定することを勧告し、木戸は土佐を鎮撫することを後藤に説いて2人の意志は、すこぶる疎通したらしいと伝えられている。薩派の大久保と西郷を戦わせ、民権論に理解をもつ木戸と握手して長土提携、民選議院設立へのテンポを早めるのが後藤の腹だったらしい。
板垣が上京を避けて神戸に留ったのは、政府を助けて西郷を討つことが本意でなく、そうかといって西郷に応じて兵を挙げたとしても、それが自由民権の発展に効果があるだろうか、むしろ高知に帰って自重して動かず、形勢に応じて進退を決するのが得策と考えたからであった。26日板垣と林は恒運丸に便乗、翌朝讃岐の多度津に上陸、林は急行して28日高知に先着し、板垣は3月1日朝帰高している。」

林 有造
林 有造