宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-土佐挙兵計画】

挙兵計画

立志社は林有造を迎えて幹部が秘密協議会を開いた。
その時集ったのは次の人々である。
社長片岡 健吉(元陸軍中佐)
岩崎 長明(元陸軍砲兵少佐)
副社長谷   重喜(元陸軍大佐、大阪鎮台参謀長)
山田平左衛門(戊申の役迅衝隊隊長)
池田 応助(元熊本鎮台参謀、歩兵少佐)
島地 正存(元近衛砲兵大尉)
小谷 正元(元近衛歩兵大尉)
平尾 喜寿(元近衛歩兵大尉)
廣瀬 為興(元陸軍士官学校生徒)
金子 宅利(元近衛歩兵大尉)

土佐挙兵計画の真相
土佐挙兵計画の真相
「土佐挙兵の際の土佐軍の出軍の方向は2方面とした。1つは大阪城をとってこれを根拠地とし、1つは松山城を攻撃して中国筋に進み、薩軍と合するというのであった。当時兵隊はほとんど西南征討軍に従い、大阪城には僅かに1、2個中隊、松山城にも僅かに2、3個中隊の兵隊しかいないことが判明していた。
大阪城攻撃は谷重喜が統率し、林は各地の壮士並ぴに旧近衛兵士等5、600名の精兵をさげてこれにあたり、山田平左衛門、池田応助、島地正存、広瀬為興の4氏はその部隊の長となり、泉州堺から上陸して、まっしぐらに夜襲を以て大阪城を奪略し、紀州兵の応援を得て、中国四国北陸方面へ架している電線を切って官軍との連絡を断ち、薩軍並びに加州、因州、備前等に檄をとばす。更に大阪警察署を襲って政府を顛 覆するの先駆とする計画を立てていた。
一方松山城攻撃の方は、片岡健吉がこれを統率し、岩崎長明、平尾喜寿、金子宅利、小谷正元、行宗貞義(元近衛砲兵大尉)水野重規(元近衛歩兵大尉)等がその部隊の長となって、その上に古勤王党と称する東西7郡に散在する憂国の志士並ぴに各地の壮士を合せておよそ壱千人内外をもって松山城に向う計画であった。
古勤王党の内、高知以東の部隊を統率する首領は、大石弥太郎、森新太郎、池知大蔵、岡甫助等で、高知以西即ち高岡、幡多の旧勤王党をはじめ壮士およそ3、400人は、桑原平八、佐田家親、宮崎頼太郎、宮川小作、石原盛俊等が率いて、宇和島を通って松山城に進撃する計画であった。」(『土佐挙兵計画の真相』)
林はその挙兵計画を説明し、一同の賛成を求め、片岡も決心し立志社はいよいよ兵を挙げる方針を決めた。
大江卓は、後藤、林と別れて京都から大阪にでた。その目的は「大阪には大久保内務卿をはじめ西南征討軍を統率するため鳥尾中将がいたので、大久保、鳥尾は勿論伊藤博文、木戸孝允等、おもだった人々を暗殺して征討軍の気勢をそぎ、時局の大革新を遂げようとし、川村僑一郎や岩神昂の両氏と話し、林等の挙兵と同時にこの計画を実行に移すべくその画策をしていた。(『大江天也伝』)のである。