宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-土佐挙兵計画】
立志社員の逮捕
九州戦線では谷干城司令官によって、2か月にわたって熊本城が固守せられ、増援の官軍と西郷軍との間に激戦が繰り返され、西郷軍の敗色が濃くなりつつあった。
高知立志社は4月26日「護郷兵設置」を立案し趣意書を権令小池国武に提出、請願した。
九州動乱の影響が四国に及ぶことを警戒し郷土自衛のためと陳情しているが、尚政府はごれにも警戒の色を見せ、5月23日陸軍中佐北村重頼が政府の密命を受けて入県、火薬商中岡正十郎(神田屋政兵衛)が貯蔵していた小銃約1,500挺、雷管20万発、火薬17,000斤を陸軍省に買収するといって6月6日汽船に積んで大阪へ送った。また海軍少将赤松則良は玄武丸を伊予の長浜から土佐足摺岬沖へ、宇和島には静岡丸を派遣して同地駐屯の陸軍と協力させた。これは四国と九州の西郷軍との連絡を遮断するためである。
元老院の佐々木高行は大久保内務卿の密旨をふくみ、陸軍中佐北村重頼、陸軍少尉石本権七を同伴して6月13日に来高、小池権令に立志社員藤好静と村松政克の捕縛を命じ、翌日2人は逮捕された、九州で、西郷軍の部将桐野利秋、野村忍助に会見していたからである。これによる人心の疑惑と動揺を抑えるために、旧藩主山内豊範が7月8日帰県し、旧臣や立志杜、静倹祉、中立社の幹部を招いて鎮静に務めることを求めた。
(平尾道雄著『自由民権の系譜』による。)
一方武器買付けは進まず、立志杜社長片岡健吉は「世評」を気にして購入計画を見合わすよう林に伝えるが、林は承諾した旨の虚報をおくって志をかえず、白髪山代金の件で、大隈大蔵卿に会って交付促進を訴えた。だが大隈へは既に大久保から密偵報告に基づいた書簡「西南の模様に依りては、必ず有為之禍心包蔵候には相違御座無(中略)代価御下け渡しの儀御見合せこれ有り度く」(4月10日付)が届いていた。この頃になると、立志社の動静は武器購入と代金払下げ、要人暗殺計画等はすべて探知されていたようである。 (日本政治裁判史録(明治前)による)
5月25日大阪で立志社員林直庸が捕えられ、前述の藤好静、村松政克が西郷軍と挙兵密約のかどで逮捕されて陰謀露顕の端緒が開け、6月25日岩神昂、川村僑一郎が大阪で拘引せられ、7月26日東京へ送られた。
林有造は7月20日高知をたち、23日大阪に着き、8月2日東京に来て中村貫一、大江卓、小野義真等を訪問した。8日午前10時に竹内綱の屋敷でローザと会見しようとして人力車で門を出ると同時に警視庁に拘引された。
林が拘引された8日、土方久元から高知出張中の佐々木高行に送った手紙に、「--高知県不良の徒捕縛の儀今日相決し、林有造はすでに拘引に相成り、明日の郵船にて警部巡査精選の上、数十名出張命ぜられ候につき、直ちに着手相成るべく、しかし都合15人の捕縛一時に運びかね候はば軽重により漸々着手相成るべく」とある。
大阪駐在の陸軍中将鳥尾小弥太も、8月17日高知出張の北村重頼中佐に発信、陸軍中尉武田秀山を高知へ急行させ臨機出兵の用意のあることを告げた。
18日午前3時立志社々長片岡健吉は自宅から引致され、副社長谷重喜以下山田平左衛門、池田応助、岩崎長明、弘田伸武、水野寅次郎、桐島祥陽、桑原之成、野崎正朝、小笠原忠登、前野正良、岡部伊三郎等立志社員13名、古勤王党佐田家親、桑原平八を加えて15名が一網打尽即日東京へ護送された。9月西郷の城山自刃で戦争が終結し、大久保内務卿の実権が一段と強大になると、警視庁付属拘置所に収容されていた立志社員の訊問が東京臨時裁判所で玉乃世履、厳谷龍一等によって進められ、追捕の網も広がり、翌11年4月25五日には竹内綱が横浜で検挙され、5月1日には中村貫一、同15日には大江卓と岡本健三郎が拘引された。
その他沖の島の三浦介雄、三浦義処、三浦則優等を加え、立志社の刑が決定したのは明治11年8月で、20日と21日にわたる大審院の判決は左記のとおりである。藤好静と同罪であるべき村松政克は獄中で病死したので、その宣告は見られない。
○大審院の判決
禁獄十年 | 高知県士族 | 林 有造 |
同 | 同 | 大江 卓 |
同 | 同 | 岩神 昂 |
同 | 同 | 藤 好静 |
禁獄五年 | 同 | 池田 応助 |
同 | 同 | 三浦 介雄 |
禁獄三年 | 同 | 中村 貫一 |
禁獄二年 | 同 | 岡本健三郎 |
禁獄一年 | 同 | 山田平左衛門 |
同 | 同 | 林 直庸 |
同 | 同 | 竹内 綱 |
同 | 同 | 谷 重喜 |
同 | 同 | 岩崎 長明 |
同 | 同 | 佐田 家親 |
同 | 同 | 弘田 伸武 |
同 | 同 | 野崎 正朝 |
禁獄六ヶ月 | 同 | 三浦 義処 |
禁獄百日 | 同 | 片岡 健吉 |
同 | 同 | 三浦 則優 |
禁獄五年 | 和歌山県士族 | 陸奥 宗光 |
禁獄二年 | 大分県士族 | 川村矯一郎 |
禁獄一年 | 同 | 村上 一策 |
同 | 大分県士族 | 石松 勝一 |
棒鎖七日 | 高知県士族 | 堀内誠之助 |
右のうち、宿毛市出身の人々への判決文は次のとおリである。
宿毛市出身者の判決文
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申 渡 |
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高知県土佐国幡多郡宿毛駅六十三番地士族 |
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当時東京府高輪町三十五番地寄留 |
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弘長男 大江 卓 |
其方儀明治十年鹿児島県賊徒暴挙ノ時ニ際シ、林有造・岩神昂等ト共ニ政府ヲ顧覆センコトヲ企テ、陸奥宗光ニ牒示シ又川村矯一郎ニ重臣暗殺ノ事ヲ教唆シ、加之林有造ガ外国商ヨり銃器弾薬ヲ何時モ取入ル様差押ユル事ニ立入リ、少ナカラサルノ金額ヲ同商ニ |
明治十一年八月二十日 |
大審院 印 |
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高知県土佐国幡多郡宿毛村三十三番地 |
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岩倉英俊方同居 |
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高知県士族 林 有造 |
其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時ニ際シ兵ヲ挙ケ政府ヲ顛覆セント企テ明治十年二月中岡本健三郎ニ依託シ、外国商ニ談シ小銃八百挺並ニ附属弾薬ヲ何時モ取入ル様差押置カシメ、又同年四月中村貫一ニ依託シ、外国商ニ談シ小銃三千挺並ニ弾薬ヲ前同様差押置カシメ、其手附トシテ貫一ヲシテ少ナカラサル金額ヲ外国商ニ渡サシメ、加之同年岩神昂・川村矯一郎等力重臣暗殺ノ企ニ与セシ科ニヨり、除族ノ上禁獄終身ニ処スヘキ処、軽減スヘキ事情アルヲ以テ除族ノ上禁獄十年申付候事 |
明治十一年八月二十日 |
大審院 印 |
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高知県土佐国幡多郡宿毛村居住 |
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当時東京府駿河台西梅町三番地寄留 |
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高知県士族 竹内 綱 |
其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ニ際シ、岡本健三郎ノ嘱託ニ依リ、外国商ヨリ小銃八百挺及附属弾薬ヲ何時ニテモ取入ル様差押フルロ入ヲ為セシ科ニヨリ、除族ノ上禁獄一年申付候事 |
明治十一年八月二十日 |
大審院 印 |
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高知県幡多郡沖ノ島四番地 |
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士族則優長男 三浦 介雄 |
其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時ニ際シ、同年三月中大山綱良ノ使トシテ賊魁西郷隆盛ノ陣屋ニ至リ田畑常秋ノ密意ヲ受ケ、高知県ニ赴キ賊勢ヲ称揚シ、遂ニ三浦義処ヲ煽動シ、加之再ヒ沖ノ島戸長ヲ欺キ病気療養ノ為メ出京スト届ケ賊地ニ投帰シ、賊勢ヲ助ケシ科ニ依リ除族ノ上禁獄五年申付候事 |
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高知県土佐国幡多郡広瀬村四拾五番地 |
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士族義和長男 三浦 義処 |
其方儀鹿児島禁獄人堀内誠之進力脱走シテ高知県沖ノ島ニ至リシ事ニ付、佐土原賊徒ヨリ三浦則優ヱ宛テ書翰ヲ贈リシ時其返書ヲ認メ遣ハシ、加之鹿児島賊徒ノ間牒ナル三浦介雄ニ面会シタル節、介雄ヨリ高知ニテ兵ヲ組立ツルニ付加入スルヤ否ヤノ談判ヲ聞キ之ニ同意セスト鑑トモ戸長役場世話掛リヲモ勤メナカラ却テ其筋ヱ届ケ出サルニ付、右科ニ依リ除族ノ上禁獄六ヶ月申付候事 |
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高知県土佐国幡多郡沖の島四番地 |
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高知県士族 三浦 則優 |
其方儀鹿児島県ニ於テ禁獄セラレ居シ堀内誠之進ガ脱走シテ高知県下沖ノ島ニ来リシ事ニ付、佐土原ノ賊徒ト書面ノ往復ヲナシ、且誠之進カ沖ノ島ニ来リシ時、其所持ノ刀剣等ヲ預リ置ナカラ都テ其筋へ訴出(数字不明)ヘキ処、軽減スヘキ事情ヲ以テ除族ノ上禁獄百日申付候事 |
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大江卓への 大審院申渡書 |
林有造への 大審院申渡書 |
9月に入って早々一同は警視庁監獄から諸県に配送された。
大江 卓 | 林 有造 | 岩手監獄 |
陸奥 宗光 | 三浦 介雄 | 山形監獄 |
藤 好静 | 岩神 昂 | 秋田監獄 |
池田 応介 | 中村 貫一 | 青森監獄 |
竹内 綱 | 佐田 家親 | 新潟監獄 |
片岡 健吉 | 三浦 則優 | 栃木監獄 |
谷 重喜 | 山田平左衛門 | 山梨監獄 |
三浦 義処 | | 山梨監獄 |
| 以下略 |
大江、林は明治17年仮出獄を許され、更に明治18年8月14日に放免された。