宿毛市史【近代、現代編-土佐挙兵計画-西南の役と宿毛人】

西南の役と宿毛人

中村進一郎
中村進一郎
中村進一郎
明治6年たまたま征韓論がおこり、政府は真二つに割れてしまった。中村重遠(進一郎)は陸奥宗光、中島信行、大江卓、岩村高俊等と共に武人の勢力が増大する事を恐れて征韓論に反対した。
征韓論は破れ西郷、板垣、後藤、江藤、副島等は野に下り、土佐出身の将兵は殆んど板垣と行動を共にして土佐に帰ってしまった。
しかし中村は征韓論反対の急先峰であったため、陸軍にとどまり、明治6年12月には、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、熊本鎮台司令長官谷干城(土佐窪川町出身)の部下となった。
翌明治7年2月江藤新平が佐賀の乱を起こすと兵を率いて佐賀におもむき、これを平定した。(この時の佐賀権令は岩村高俊であった)
明治10年西南の役が起ると、別動第2旅団の参謀となり、肥後に薩摩にと転戦、遂に西郷隆盛は城山の露と消えて九州は平定した。
この功によって中村は勲四等に敍せられ年金180円を賜わり、明治11年陸軍大佐に任ぜられ従五位に敍せられた。

酒井 融
西南の役で熊本城は薩軍によって包囲され、援軍は来ず囲みは解けずその上兵糧倉は焼け、籠城実に50余日、遂に薩軍を破る事ができたが、この籠城の際1名の餓死者もなく立派に籠城を成功させ、谷干城をして籠城将軍の名を世界にとどろかせたのは、主計主任であった酒井融の功績ともいう事ができるのである。
酒井融は宿毛に生まれ、青年の頃、宿毛の羽田文友について医学を学び文友の1字をもらい酒井友慶と称して明治戊辰の役には宿毛機勢隊に属して北越に転戦、その後陸軍に入り主計将校となリ、明治10年には熊本城の主計主任と、して糧秣等を管理していたのである。それが前述のような籠城のうき目に会い、兵糧の責任者であった酒井の苦心はなみ大抵のものではなかった。不公平な配分をすれぱ餓死者ができ、必ず争いが起こる。
酒井は将兵を戒め、励まして頑張り続けた。おかゆをすすり、木の実、草の葉は勿論の事、死馬の肉やねずみまで捕って食べる状態にまでなったが、ようやく援軍と連絡がとれ危機を脱する事ができた。
この戦いに酒井は、谷干城から絶対の信頼を得た。やがてこれがもとで、日清戦争では大抜てきを受け、野津大将の率いる第一軍の糧廠部長となったのである。

岩村通俊
岩村通俊
岩村通俊
西南の役の処理にあたって、鹿児島県人より尊敬された人として岩村通俊がある。
明治10年2月西南の役が起きた時、通俊は鹿児協県令の辞令電報を受け、3月21日西京の行在所に木戸孝允と共に参内、明治天皇に拝謁の栄に浴しており、当時これは県令としてはまことに異例の事であった。
4月28日大久保差廻しの軍艦扶桑に乗船、鹿児島に赴任したが、鹿児島県内は砲煙弾雨がうずまいて人心は動揺していて、維新再来を思わせる状態であったが、通俊は従容として事に当り士民の宣撫や救護に全力を尽し、遂に大乱を鎮撫した。反乱の将西郷隆盛は遂に城山の露と消えたが、彼は官軍に請うてその屍を受け取り、これを懇ろに浄明寺の境内に葬った。鹿児高県人はこれを徳として今なお彼を尊敬しており、南洲神仕境内に岩村県令記念碑を建立し、遺徳を偲んでいる。又明治12年、彼は政府に請願して士族授産金10万円を受け取り、これによって各種の殖産事業を興し、戦後のいためられた鹿児島復興の基礎をたてた。

宿毛よりの政府軍参加者
宿毛よリ政府軍として西南の役に参加した人は、前記中村・酒井の他に昭和7年郷土調査によると次の通りである。
出兵人員  4人 浜田謙蔵、島崎喜代次、畠山鉄馬、山本咲十郎
戦死者    1人 少尉浜田謙蔵(宿毛町貝塚の人、田原坂の激戦により戦死)

浜田謙蔵戦死通知書
浜田謙蔵戦死通知書