宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動】

愛国公党と民選議院設立建白書

征韓論に破れた西郷とその支持者達はそのまま鹿児島に引き揚げたが、土佐派のうち海軍中佐片岡健吉、外務省出仕林有造らは明治6年(1873)11月5日東京府下品川の山内容堂墓前に集合「海南義社」を結成した。この組織は成熟せず、短期間に消滅し、板垣退助や後藤象二郎が組織した「幸福安全社」に吸収され、それに佐賀の江藤新平、副島種臣らが加盟し、やがて明治7年1月12日に、「愛国公党」と改称した。
愛国公党を背景にして同年1月17日には、「民選議院設立願望書」が左院に提出された。建白書には、「広く人々の意見を聞いて政治を行なうことは、新政府の方針であったのに、薩・長・土・肥の4藩、特に薩摩.長州2藩の出身者によって政治が動かされ、官僚的な政治が行われている」と、するどく政府を攻撃し、「それを改めるには世論をおこすことが大切であり、その為には民選議院(国会)をつくる必要がある。人民は租税を払っているのだから政治に預かる権利を持っている。」と述べている。これは権力主義に対する民主主義の挑戦であリ、またある意味では土肥勢力の薩長勢力への反撃であった。
政府は建白の首脳者が征韓論に破れて下野した人々であり、政権をねらう野心ありと疑いその建白書を拒否した。 板垣退助は愛国公党の運動も民選議院設立の建白も十分な成果をみることができず、明治7年3月26日高知に帰った。