宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-政党の設立】

政党の設立

立志社と国会期成同盟
明治7年4月10日、片岡や林の協力を得て、帯屋町の旧兵営で「立志社」の発会式をあげた。「士族授産によって生活を安定し、学校を設立して新しい教育を行ない、没落士族を救済し、自由民権運動を高める」ことが趣旨であった。
明治8年(1875)2月11日政府は政権強化を謀って大阪会議をひらいた。同年2月22日高知立志社は、自由民権運動を全国的に拡大するため、大阪に愛国社創立会議を開催したが、板垣が政府の勧誘に応じて、3月14日参議に復活した事によってこの運動は断絶し、愛国社創立は失敗した。
板垣は参議復活が決定するとその心情を釈明するため、林有造を鹿児島の西郷のもとへ送ったが、面会を忌避され目的を果たすことができなかった。
西郷隆盛の挙兵によって九州は動乱の渦中におかれ、立志社ではこれに対処するために護郷兵組織を政府に訴え、更に片岡健吉が中心になって民選議院設立の運動も推進したが、裏面では挙兵計画もたてられていた。
                                         (土佐挙兵計画の項参照)
明治10年8月立志社の獄によって、社長片岡健吉以下の幹部を奪われたが、板垣はひたすら自重を求め、西野友保を仮社長に、島地正存を仮副社長として社務を担当させた。
8月25日には立志社機関誌として、『海南新誌』と『土陽雑誌』が刊行され、地域的な各社も立志社にならって次々に結成された。
明治11年9月には全国各地の結社の有志や委員が大阪に集リ、「愛国杜再興会議」を開いた。土佐から立志杜、有信社、南洋社、共行杜、宿毛合立社の代表が出席している。『自由党史』によると宿毛合立社の林包明・浜田三孝が委員として出席している。
12年3月27日第2回愛国社会議がもたれ、全国18県21社有志84名が参加しておリ、宿毛合立杜より林包明・廣瀬正献が参加している。
同年11月7日第3次愛国杜大会が大阪江戸堀で開催され、片岡健吉とともに宿毛合立社代表として林包明が出席している。
明治13年3月15日、愛国社同盟27社の代表114名によって「愛国杜第4期会」が開催され、宿毛からも浜田三孝・林包明が代表として出席し、愛国社を改め、「国会期成同盟」とし、国会願望書起草委員・審査委員を推せんし、4月9日に会議を終えた。             (『自由党史』平尾道雄著『自由民権の系譜』)
このように南国土佐の山間より起った自由民権運動は、立志社よリ愛国社へ、そして国会期成同盟へと発展し、国会開設願望書に署名したものは、2府23県で請願者8万7千余人の総代97名(内高知県総代44名で約半数をしめている)に及んだ。
この願望書を片岡健吉と河野広中が太政官に出頭し提出したのは、明治13年4月17日であった。しかし太政官より元老院、内閣へ回され、5月8日願望書は却下された。
そこで国会期成同盟を改組して「大日本国会有志会」と改め、東京に本部を置き、国会開設願望と共に地租軽減・条約改正を目標とする国民大衆運動として強化に努めた。
一方政府部内でも大隈重信等は早期開設を主張するようになり、単独で有栖川宮に進言した。この大隈の行動はいたく他の参議たちを刺激して国会開設にふみきらせ、こうして明治14年(1881)10月、来る23年(1890)を期して国会を開設する詔勅が下った。