宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-政党の設立】

政党に設立

自由党の結成
国会期成同盟の有志は、明治14年(1881)10月17日東京に集合し、懇親会を催し、翌18日浅草井生村楼で会議を開いた。
議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪、幹事に内藤魯一と林包明が推されたが、既に国会開設の詔勅がでた上は期成同盟の意味がなかった。すなわち大日本国会有志会と沼間守一を中心とする自由党は合併して大政党を組織すべきだとの意見が出され、新しく自由党結成が決議された。
板垣退助は東北各地遊説を終えて帰京、10月29日公選されて総理となった。総理以下の役員は次のとおリである。
総 理板垣 退助
副総理中島 信行
常議員後藤象二郎    馬場 辰猪    末広 重恭    竹内  綱
幹 事林   包明     山際 七司     内藤 魯一     大石 正巳     林  正明
以上役員11名が選ばれたが8人までが高知県人(内2名宿毛出身)であり、立志社以来民権運動における伝統の強さを忍ばせるものがある。(『自由民権の系譜』)

立憲改進党の結成
自由党の結成についで明治15年3月16日には先に薩長政府に反旗を翻して退官した前参議大隈重信を総理とし、副総理は前農商務卿河野敏鎌、幹事には前会計検査院一等検査官小野梓、前農商務大書記官牟田口元学らを中心として立憲改進党が木挽町明治会堂で結成式を挙げた。副総理河野と幹事小野は共に高知県人である。
自由党と改進党は共に反政府の立場は共通しているが、その構成分子は自由党が農村を地盤としていたのに対し、改進党は地方都市商工業者を背景として異質のものであり、両党はこれから犬猿のように対立することになる。
小野梓は宿毛出身者であり、林有造、竹内綱のような同郷の先輩に追従せず、馬場辰猪の勧誘も断わり、自由党に参加せず改進党の設立に尽力しその幹部になったのである。大隈派の要人として、その存在が注視されていたが、明治19年1月11日35才でおしくも病死した。
小野梓(青年時代)
小野梓(青年時代)

その他の政党
自由党と改進党のほかに、明治15年3月18日「立憲帝政党」が組織された。
東京日々新聞社長福地源一郎、明治日報の丸山作楽、共行社々長で東洋新聞の経営者水野寅次郎(高知出身)の企画したもので政府の御用党とみられ、世論も同調せず「三人政党」といわれた。
いずれにしても三政党幹部に高知県人が参加して活躍していることは、その政治力のたくましさと土佐の政情の複雑さを示す一面といえる。(『自由民権の系譜』)