宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-大同団結運動】

大同団結運動

政界と政党の動き
明治15年4月6日自由党総理板垣は遊説途上岐阜で刺客に襲われ負傷した。
同17年10月板垣、後藤は共に欧州視察のため外遊した。その旅費出資について非難があり、自由党内にも外遊反対論者があったが板垣はこれを無視して外遊にでた。馬場辰猪や大石正巳らが離党しこれに同調者もあり、そのうえ政府は集会条令や新聞紙条令などをだして弾圧を強化し、財政難も加わって17年10月18日大阪での大会で解散した。
立憲帝政党はすでに明治16年9月24日に解散しておリ、立憲改進党は自由党についで12月、解散論と非解散論が対立し、尾崎行雄らは残留したが、大隈・河野・小野ら有力な幹部級が離党したので有名無実の存在でしかなかった。これも政府の弾圧が政党の存在を許さないまで強化されたことによるのではなかろうか。
政府は政党の攻勢を抑えながら、国会開設の準備を進め、明治18年(1885)12月太政官を廃し内閣制度に改めた。
伊藤博文が初代総理大臣に任命された。しかし伊藤内閣が外交問題として取り組んだ不平等条約改正案を始め、欧化主義を中心とする政策に反対して、政党政派も小異を捨てて大同に就き、協力してこれに対処すべきであるとしていわゆる大同団結運動が起った。
自由党・改進党その他保守党につながる政界各派はこれに参加し、内閣においても農商務大臣谷干城が政府の改正案を非難して辞職した。
ついで林有造・松尾清次郎等もまた条約改正反対の建議をし、これら多くの反対によって条約改正は無期延期となり、外務大臣井上馨は責任をとって辞職したが、大同団結は結束を弱めなかった。

林 有造退去命令書
林 有造退去命令書

保安条令の布告
明治20年(1887)12月片岡健吉を代表として政府に追った3大事件(地租軽減・言論集会の自由・外交政策の挽回)の建白は最もその組織的なものである。
政府は政情不安と危険を恐れ、同月26日、突然保安条令を布告し、東京には戒厳令がしかれて、26日から28日にわたる3日間に570名に及ぶ人々の退去を命じた。この内高知県人は234人(宿毛出身者林有造・竹内綱・林包明・広瀬正献ら)の多数を占めていた。
保安条令によって民権派の運動を弾圧した政府は、21年2月1日井上外務大臣の後任にもと立憲改進党総理大隈重信を入閣させ、4月30日には伊藤は枢密院議長の席におさまり黒田清隆による新内閣が組織されたが、後藤象二郎を中心とし、谷干城の国粋論を含めて政府を非難攻撃した。
このような世情のなかで、政府は民論を制圧しながら独自の立場から憲法起草に着手し、「大日本帝国憲法」を作成した。これに伴って帝国議会も開設されることになり、明治22年(1889)2月11日これを公布した。
黒田内閣が板垣と後藤に入閣を求め、板垣は辞退したが後藤は受諾して3月3日逓信大臣に就任した。大同団結は中心人物後藤の入閣によって分裂し、後藤は各派から非難の嵐を受けた。

立憲自由党結成
旧自由党系のうち河野広中は「大同倶楽部」を、大井憲太郎は「大同協和会」をそれぞれ組織し、板垣退助を推す一派は「愛国公党」を結成したが、各派の幹部は自由派のこのような分立は好ましくないとして3派をまとめて「庚寅倶楽部」とし、総選挙後「立憲自由党」を組織することに決定し、9月15日結党された。
                                    (『自由民権の系譜』『高知県史』)

国民党
この自由民権派に対抗して、高知県で君主立憲政体確立を目的とした結社の集りを国民党(派)といった。高知県では須崎市の猶興学校他に幡多郡の高陽杜・修身社・土佐郡の中立社を中心にして、殖産振興の方策を講じながら国民思想の普及につとめていた。特に猶興学校は国民党が政府から受けた金2万円位で運営されていたが、猶興学校廃校後はこう産会、高岡郡の国民党クラプと変遷消滅したらしく、たび重なる懇親会や茶の事業の失敗などにより学校や結社を消滅に導いたのだろうといわれている。
                            (土佐史談橋本増栄氏「須崎猶興学校について」より)
しかし、このような結杜で教育された人や古勤王組と称する保守党の人々が明治23年の第1回総選挙や明治25年の第2回選挙に対し、立憲自由党に対抗し高岡郡や幡多郡を中心として国民党と名乗り政争を続けることになるのである。