宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-選挙干渉】

選挙運動

憲法が発布されたのと集会条例の緩和によって各政党の遊説は活発になった。
「立憲自由党は明治22年3月高知県選出衆議院議員候補者の選定を終り、林有造が4月3日北海道小樽港の埋立工事を終えて急きょ帰省したのは、議員候補者としての打合わせもあったからで、有造等は板垣邸で会合協議し、4月16日から、竹内綱、植木枝盛、片岡健吉、林有造の各候補者は手分けをして、各選挙区を遊説した。といってもそれは懇親会といった程度で、公然候補者として名乗りをあげた訳でなく、各地を歴訪して有志、有権者を集め小宴を催しながら、候補者と有権者の融和を図ったのである。有造はまず片岡の応援に片岡の選挙地盤を回り、5月3日高知に帰り、十数日後、片岡と幡多全域の遊説を試みた。その後有造は伊予を回って大阪へ出ている。6月26日の松山通信によると、20日宇和島に到着、22日東宇和郡卯之町、23日八幡浜を歴訪し、懇親会・演説会を開催、大同団結の必要を訴えている。」(『林有造伝』)
一方国民派も指導者谷干城が明治23年1月1日帰県し、高知市を中心に演説会・懇親会を開催している。1月11日には幡多郡下田村に上陸、中村、清水を回り15日夜には平田村に入り、小島純太氏宅に宿泊し、17日平田を発って高知へ帰っており、その時の模様を『谷干城遺稿』明治23年記によると各地で演説会や懇親会が開催され、昼間は土地の有志と猟を楽しんでいる。中村での演説会には聴衆1,000人余りを集めており、中村では国民派支持者の多かった事を伺い知ることができる。
15日より17日の平田村小島宅在宿中の日記では、「小島氏の村は自由党の者が多い事、加地子米減少の事で百姓が夜にまぎれて石垣や塀をこわした事で、これは自由乱民が自由説を利用して地主を脅迫したもので、社会党といって憎むべき行為である。小島氏は地租千円を納む大家であり、国民派の温厚な人物であり、これを教唆する者は宿毛の自由党の巨魁である○○○氏であり、自由党の行為は共産党なり、破壊党なり」ときめつけている。
このように、第1回の衆議院議員の選挙を前にして両派は激しい選挙の前哨戦を展開していたのである。