宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-選挙干渉】

選挙干渉

第1回帝国議会は明治23年(1890)11月25日に召集された。政府提出の予算案をめぐって当初から与野党が厳しく対立した。これを調整するため議長中島信行、予算委員長大江卓、請願委員長片岡健吉ら9名で予算審査委員会をつくり交渉の結果、妥協案が賛成157、反対125で成立し解散を避けることができた。
山県内閣はこの譲歩によって退陣し、松方正義が新内閣を組織して24年12月21日第2回議会が召集されたが、野党は政府の軍艦・製鋼所設立費の予算を否決し、政府攻撃を強化したので議会は12月25日解散となり、翌25年2月15日に第2回総選挙が施行されることになった。
内務大臣品川弥次郎が中心となり、全国の選挙区で官憲が選挙干渉にのりだし、野党側もこれに対抗したので、いたる所で暴力と暴力の衝突が行われ、遂に各地で死傷者がでて我が国選挙史上に汚点を残した。
高知県では、その干渉が最も露骨になり、自由党と与党である国民党との抗争が激しかった。当時の高知県知事調所ずしょ広丈も、警察部長古垣兼成も鹿児島県人であり、最も激戦地であると予想される第2区高岡郡長には、同県人中摩速衛を起用して、選挙干渉のために万全の備えをとったのである。高知県下の立候補者は第1区では前回の候補者竹内綱が実業会に入り辞退し、自由党(24年3月20日「立憲」をけずり自由党と改名)の武市安哉と国民派新階武雄、第2区では、自由党林有造・片岡健吉、国民派片岡直温・安岡雄吉が立ち、第3区では植木枝盛が1月25日病死したので西山志澄が枝盛の養嗣として植木氏を称して代わり、国民派弘田正郎と対立した。第1区と第3区とは自由党支持票が多数であることは前回の総選挙で明らかであるが、第2区の林・片岡を倒す事に政府側の目標がおかれ、したがって干渉が最も積極的に行れたのである。
各地の警察官は公然と有権者に向って、国民党候補者への投票をすすめ、抗弁する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙することは不敬きわまることだ」と叱責し、国民党壮士の乱暴を見逃がしたりした。自由党壮士も又これに対抗し争いが各地でおこり、この為死傷者まで続出した。この頃は保安条例がしかれて、兇器を携行して通行することは禁止されていたが、この適用を受ける者は自由党員ばかりで、国民党員は兇器携帯が黙認されていたので自由党員は自衛上鍬の柄を杖として闘ったという。
このように警官の干渉も目にあまるものがあり、保守中正主義をもって自らを任じ、自由主義とは相容れず、むしろ国民派の立場にあった谷干城でさえも政府の選挙干渉政策については立憲政治において許すべからざるものとして憎悪し『高知日報』に「高知県人へ告ぐ」を掲載し忠告している。1月26日、27日頃から各地で流血の惨事が繰りかえされはじめこうした世論の高まりと厳しさに政府も無視することができず、2月9日閣令第1号をもって高知県管内に20日間を限って、保安条例第5条を適用し憲兵隊を派遣した程で、騒然たる県下の状況を想像することができる。

第2回 総選挙における死亡者と負傷者












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   政府側の調査であるから更に多かったと思われる。
                        (大日本帝国会議誌)
 

幡多郡下の状況
このような選挙騒動は第2区であった幡多郡下でも全く同様であった。宿毛等のように挙村自由党の所もあったが、両党とも中村で大集会を開催したり、各部落では大きな旗を作って宴会や集会、選挙応援、時には田植えにまで旗をたてて気勢を挙げた。当時郡下の状況を(橋田庫欣資料による)中村の桑原良樹談として次のように書いている。
「国民党は百笑(どうめき)の宮崎嘉道が中心となり、楠島の桑原恭次郎、横瀬の宗崎重信、芳奈の和田克次・同力衛・同浩、平田の小島純太・川村道高、押の川の押川光躬等が主な人で、特に宿毛に対する本陣は押の川の押川光躬であった。自由党の方は、不破の人々や楠島の川村勇馬・川村泰渡、江の村の土居三白、上の土居の立石治内、有岡の熊岡泰次・橋田宇太郎・宗崎重寛、山田の江口準や宿毛の人々であった。中村の四万十川原で国民党は上に、自由党は下に集って大集会を開いて気勢をあげた。その時、西は宿毛より東は佐賀、北は川崎方面から壮士が集まって来た。自由党は赤げっとうを肩にかけ、赤い大きな旗を川原に立てた。国民党は青のけっとうを各人肩にかけ、国民党と書いた旗を川原に立て、酒樽をわって酒を飲み、花火をあげ、大砲まで打って気勢をあげた。子供をつかまえても「自由か、国民か」と云って聞いたくらいであった。」
各地の演説会では、ヤジ投石が行われ、23年11月には自由党の杉内清太郎が殺害されたのをはじめとして、25年の第2回選挙の時には川村勇馬襲撃事件、土居三白襲撃事件、立石治内襲撃事件等が次々に起った。

宿毛の状況
宿毛の状況について『林有造伝』では「生活地獄」と題して次のように書かれている。「宿毛においては有造の出生地であり、しかも選挙地盤は幡多全域と吾川、高岡各1郡だから官憲と国民派は連絡をとって宿毛に大々的に圧迫を加えた。千余名の壮士と博徒を狩り出して宿毛の交通をしゃ断してしまった。こうして一方には自由党壮士の来援を遮り、他方では宿毛を中心として、選挙の妨害を行なったのである。
この遮断の結果は宿毛全町民に大脅威を与えた。貨物の運搬が杜絶したので食粗の運搬ができなくなったのである。米に窮し、塩に窮した。ここにおいて自由党も百姓や有志を集めて国民派の包囲にあたらせたが、こうなると益々糧道は塞がるばかりで、15日の投票日が来るのを待ちかねた。国民派を駆逐する希望より米塩の補給を希求しはじめた。」

自由の旗
自由の旗