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菊地儀三郎死亡の地 (伊与野) |
○ | 芳奈の和田鉄一氏は養父克次から聞いた話だといって次のように当時の模様を話してくれた。 |
「和田克次は菊地儀三部・武田利太郎を連れて弘見の同志の所へ行こうと思った。宿毛へはまともに行けないので、橋上村を通リ、夜半になって野地から与市明に出た。与市明では自由党がたき火をたいて警戒していた。克次は一策を考えて、たき火に近より、『芳奈の和田は通りゃせざったかや!!今晩あたり通るかも知れんけん、しっかり警戒してくれよ』と言って尻をまくり、きんたまを出してたき火にあたり、間もなく宿毛の町に入った。警戒していた人達も一応疑ったようだったが、ぶらんと下ったきんたまを見て、克次であれば、きんたまがぶらんとたれ下っているはずはないと思ったのか、別に怪しみもしなかった。宿毛に入った3人は、わざと林邸の前を通った。林邸では土塀に鉄砲を撃つ穴をあけていた。やがて坂の下の渡しを渡リ、みくら坂を通っている頃、さっき通ったのがどうも和田克次達だという事になったものとみえて数十名の者が追っかけて来た。呼崎でこの追手に感づいた克次達は、急いで逃げたが伊与野でとうとう追いつかれ、菊地儀三郎は鉄砲で殺され、利太郎は重傷を受けた。 克次は、大勢に囲まれたが腹に手を入れ、持っていた短刀を出そうとした。自由党の方ではピストルと思ったのか、一瞬たじろいた。その隙に克次は逃げ、橋の付近に隠れた。夜になってやっと敵の警戒線3ヶ所を突破して福良部落に逃れた。」 |
○ | 磯の川の西丑太郎氏(明治4年生)は次のように語っている。 |
「伊与野をやっと逃れた和田克次は、福良が国民党であるので、そこに向って逃げていると後から追手が来た。腹をきめた克次は、 『おれは宿毛の署長ぢゃが、お前らあ何しよるか』 といった。すると 『和田克次がこっちの方へ逃げたので追っかけています』 と云ったので、克次はすかさず 『そうか、それじゃ、さっきあの道を向うへ走って行った男があるが、あれが克次だったか、早く追いかけてくれ』 と追手を別の方へ行かせ、自分はその後、巡査に保護されて芳奈に帰って来た。」 |
○ | 伊与野の松本義正氏(明治11年生)は当時の模様を次のように話してくれた。 |
「小筑紫は当時自由党で、福良は国民党であった。和田克次達は福良の今城清好氏の所へ行こうと思ったのであろう。自分はその時昼寝をしていたが鉄砲の音に目が覚めて見ると人がいっぱい出ている。行って見ると海津見神社の東方約百米の田の中で、菊地儀三郎が鉄砲で撃たれて死んでいた。うしろから撃たれたとみえて弾丸は、額で止リ、額がふくれていた。後に憲兵が来て検死をした。当時は誰が撃ったか不明であったが、ずっと後になって上谷岩次が撃ったという事がわかった。」 この事件の主役であった和田克次は、この時の事を次のとおり記している。 |
一、 | 明治25年、帝国議会ニ於テ絶対過半数ヲ占メタル自由党ハ、国防上ノ必要ヨリ提出セル製艦費ヲ時ノ政府ニ反対ノ故ヲ以テ否決セルニヨリ遂ニ衆議院ハ解散セラレ其総選挙ニ当リ在野党タル自由党ト政府党タル国民党トノ競争ハ一層ノ激烈ヲ極メ、彼我ノ死傷者県下ニ於テモ数十人ニ及プ、当主克次ハ依然政府党タル国民党ニ属シ、候補者片岡直温・安岡雄吉2氏ノ為二死生ノ間ヲ奔走中・同志菊地儀三郎及武田利太郎ノ2人ヲ引率シテ反対党ノ巣窟タル宿毛ヲ経テ奥内村ニ至ラントスル際、小筑紫村字呼崎ニ於テ自由党ノ牡士5、60名ノ追撃ヲ受ケ、同行儀三郎ハ敵銃丸ニ斃レ、利太郎ハ手足ニ数ヶ所ノ刀傷ヲ受ケ辛シテ死ヲ逃レ、当主克次ハ伊与野橋畔ニ敵鉾ヲ避ケ、夜半敵ノ警備3ヶ所ヲ突破シ、福良部落ニ逃レ幸ニ無事ナルヲ得タリ、世上此ノ大競争ヲ呼ンデ明治25年ノ選挙大干渉ト称ス。 和田克次がこの事件の時、懐中に入れていてピストルと思われて難を逃れた短刀は、刃渡り一六・三糎、幅二糎、無反リ、無銘の矩刀であり、現在和田家に保管されている。 この事件の時殺された菊地儀三郎は中村の人であり、羽生山墓地に墓がある。その墓石には次のように記されている。菊地氏称儀三郎本郡中村人夙以俠気彰年強義気益堅常以国家為念□歳之壬辰有国会議員選挙之事氏與同志両三輩遊説西南□□小筑紫村伊與野口□次為反対党所襲撃衆寡不敵遂中銃□□□□年36時明治廿五年二月三日也 |
銘日 義心堅若鉄 為国棄此身 山石有時盡 侠名永不堙 維時明治廿六年巳癸二月廿日 国民派有志者建立 (橋田庫欣資料による) |