宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-選挙干渉】

宿毛の防禦と郡書記の死

宿毛は林有造の本拠であった為、国民党は度々和田付近まで襲撃して来た。それに対して宿毛勢は宿毛の防備に必死となって活躍した。当時のようすを片島の加藤春馬(明治15年生)は次のように話している。
「国民党は和田迄何回も攻めてきた。宿毛の有志達は林さんが危ないので逃げさせた。林さんは下女を連れて東福寺から山をくぐって松尾坂を越して岩水に下り、深浦の小幡氏の所に一時難を避けた。
現在の県交通宿毛営業所(現上町郵便局付近)のそばに飲食店があったがそこが自由党の事務所になっていた。槍や刀を集め、皆がそれを持って守っていた。自由党の方は刀や槍の取締りが厳しかったので、むしろに包んで隠していた。槍は長いので目につくから九尺柄や二間柄は四尺に切って杖にしたりしていた。鍬の柄も集めたので宿毛の店には鍬の柄は1本もなくなっていた。」(橋田庫欣資料による)
深浦の小野進一氏より林有造宛の手紙
深浦の小幡進一氏より
林有造宛の手紙
林有造が愛媛県の方へ行った事について、南宇和郡東外海村之内深浦、小幡進一氏が2月24日付で岩村家へ出した書状よれぱ
「2月23日付、城辺分署名で2月24日尋ねたい事があるので9時に分署迄出頭するよう召喚状が来ており、当日出頭すると署長より林氏来宅の有無、同伴者の有無、来宅の用件、訪問者の有無、出発の日時、方法、方向を聴取されており、召喚の理由たるや、林氏は帝国で有名なお方であり、紛争についても犯罪と認めるような箇条はないが、身辺に万一の事があっては不都合になるので、部内におられるようなら保護しなけれぱならないし、巡査と十分打合わせをしなくてはならないと思っている」というような口調で尋問している。
選挙の前日、2月14日には中角村に国民党が来襲し更に宿毛へ大勢で押しかけてくるとの情報があった。宿毛は総動員でこれを迎え撃つ準備をした。明けて15日の午前1時頃約一千名の国民党の壮士が銃や刀を持ち、巡査を先頭にして市山峠を越えて和田にやって来た。ここで危うく宿毛勢と大決戦になろうとしたが憲兵の努力によって、決戦にならずにすんだ。しかしこの混乱の時、和田村役場に入って来た細川速水郡書記は、役場の庭で自由党の壮士の為に切り殺された。
当日の様子については、林有造が同志片岡健吉に出した手紙に詳しい。
    林有造より片岡健吉への書簡
拝啓、陳者先日来、彼の党の宿毛襲撃の説頗る盛んにして如何と配慮罷りあり候処、昨日午前宿毛より東北中角村に襲来との事故、選挙場は宿毛の川の東、和田村につき選挙人は宿毛の方へ連れこみ、中角村へは宿毛且つ隣村の人数百余名繰出して防禦させたり。彼の党5、60名襲来せるも当方多人数にて引取たり。明日は選挙日につき、如何と考え居り候処、晩景には愈よ襲来ということ相分りたり。然し今1日に付充分準備致し置くべしとの論にて朝より近村一同相集り、その人数大凡一千人、夜10時襲来の事相分り充分備えをなし居るところへ夜1時襲来、憲兵も略々その意を覚え居り候か又多人数の備えを見てか川向に8名の憲兵待ち居るの勢なり、1時頃襲来の模様あるや和田村境に出で候番兵は勿論保安条例施行のこと故、只だ棒のみ持ち居り候こと故、直に逃走、暴漢侵入を高声にて報ず、直ちに山上にて早鐘をつく、一千余人混雑甚だし。憲兵は銃声を聞くや村長森江洲・三好素に云う。我我職権を以て充分に防衛す、決して和田人家までは入れず、我々斃るるまでは銃器を持し発砲いたすべからず、防禦能はざる時は其時に至り如何とも成るべしと、直に和田人家の先に向う。森江洲は憲兵の後に随う。彼の党は隊伍を為し、警部2名、巡査10名、憲兵と行違う。憲兵曰く発砲を為すは如何。巡査曰く誤れりと、憲兵怒り直に退くべし、退かざる時は砲撃せんと短銃を警官に向けたリ。警官尽力して退かすべしとて暫時にして一町ばかり退き憲兵も亦少しく進む。警官曰く決して之よりは進ましめずと、憲兵は退きて元の川向に退く。この時和田、宿毛近村出張の人数は千二、三百名に至る。憲兵なかりせば身命財産保護のため兇器を持たざるを得ざるに至るならん。然るに茲に至りたるは憲兵の保護によれり、然しその間の混雑は名状すべからず。其の混雑の際、彼の党に混じ来りしか、又如何の事にて和田村人家の内に入り候者か1人来りし者を和田村役場の庭にて斬り倒したり。偖て彼の党初め退きし場所にて天明に至るも退かず、和田宿毛近村の者は益々多人数となる。7時頃に至り警官説諭にて退く、我党も亦退きたり。生も2時頃尤も混雑の節、川の西側まで出張、憲兵尽力の報を聞き帰宅す。宿毛・和田近村の者一人として寝に就く者なし、生も眠らずして選挙場に入り投票す。選挙人1人として股引草鞋ならざるはんし、此の如き粉擾は実に開国依頼の未曽有のことと存じ候。(2月15日)(『高知県史』)
この和田事件の目撃者の1人である和田の山本兼馬氏(明治14年生)はこの時のようすを次のように語っている。
 「国民党の方は、押ノ川の押川を根拠地にして釜で4つも5つも飯を炊き、腹ごしらえをして刀や鉄砲を持って市山峠に向って来た。
 国民党の方では、林有造の首をとったら一万円やるといって気負うていた。自由党の方は林さんの家が根拠地で、ここで飯を炊き、手槍や刀等をむしろに包み、鍬の柄を持って宿毛の堤防に陣地をしき、尖兵を市山峠に出し、正和部落の入口の山には石を積んで、下に来た時落せるようにしていた。そのうち和田の「えんの下」で両軍がいきおうて今にも合戦になりそうになった。この時憲兵8人が出て来て、国民党の方に向って『1足でもかけたら撃つぞ』といって国民党を追っぱらった。私はその時、まだ12才位の子供であったので、家族と一緒に裏の竹やぷに逃げて、そこにむしろをしいて一夜を明かしたが、雪が降ってとても寒かった。朝目がさめてみると役場の庭に人が多勢集っているので行って見ると、庭に1人の男がわらじ履きのまま殺されて、しまのけっとうを着せられていた。よく見ると両手は皮一重だけ残ってぶらりとしており、頭はまるで柿を割ったように割れて、骨は飛び散って下のあごだけが残っていた。そのうちに憲兵や警官や医者がやって米て、飛び散った骨をとり集めて縫うた。
 その時皆が『よっぽどの達人でないとこうは斬れん』といっていた。
 あとで殺された時のようすを聞いたが、その話によると「えんの下」で混雑している時1人の男が刀を腰にさして和田に入って来た。
 どうもこの男は国民党のまわし者だというて数人の者があとをつけていると、その男は和田の役場に来た。その時役場には村長の山本重剛と小使の田渕鉄次とが居た。その男は玄関に入って土間で村長に向って、
『私は郡書記の細川速水だが、今日の選挙のことについて郡から来た』と話していた。あとからつけて来た者たちは、
『うそをいうな』『こいつはうそゆいぞ』と云って土間から外に引っぱり出した時、吉田平太郎が『おこて、おこて』といって、またたく間に両方の手首を斬ってしまった。
 細川は『キァア、キァア』と大声でわめいているのを今度は『お面』と云って頭を斬った。細川はぷったおれて、しゃけっていた。
 長尾菊治は『おどりゃ、まだべしゃべしゃ云いよるか』と言って鍬の柄で頭をたたき、続いて吉田達が何度も斬りつけてとうとう殺してしまった。この時の細川の悲鳴は相当に大きな声であったとみえて、付近の人達は皆がこの悲鳴を聞いている。
 細川を斬った吉田平太郎は、「河戸こうど」で刀や手、顔を洗って林さんの家に帰り、2階で一杯酒を飲んで、いとま乞いをして伊予の方に逃げた。吉田という男は、頭は丸坊主で大きな人で、自由党に雇われて林さんの家に来ていた人で、剣道のよくできた人であった。その後この吉田は裁判の結果、松山の監獄に入れられ3ヶ月ぱかりして死んだという。この事件の時、和田からは長尾菊治・助村顕藏・木下亀吾・森田伊勢次・北本藤馬等が中村へ呼ばれて調べられた。
 その時の投票は、国税を15円以上納める者でないと投票できなかった。
 宿毛で投票すると自由党が勝つと思ったのか、和田の役場が投票所になり、宿毛の人も和田に来て投票した。自由党の地盤であるこの地の投票箱を途中で国民党にとられてはいかん、よっぽどしっかりした者に須崎の開票所まで持って行かせなくては、という事になり、巡査を田の中に突き飛ばした事のある松沢深水に投票箱を持たせ、じゃまが入らんようにと楠山の奥を山越えして川崎に出て、開票所の須崎まで持って行った。」(橋田庫欣資料による)
細川速水殺害場所付近の現状
細川速水殺害場所付近の現状

細川速水殺害事件終結決定書
細川速水殺害事件終結決定書
細川速水殺害事件
終結決定書
宿毛市貝塚の浜田義造氏宅に和田の細川速水殺人事件の終結決定書が保存されている。
起訴されたのは吉田平太郎外36名で、この裁判の結果は、吉田平太郎は重罪であるので高知地方裁判所に廻し、他の者は免訴になっている。その全文は次のとおりである。

      高知地方裁判所中村支部
      明治25年豫第20号
              終結決定書
香川県阿野郡林田村 平民 吉田小次郎事 吉田平太郎 47歳9月生
高知県幡多郡和田村野地 士族   山本 重剛 40年8月
仝県全郡宿毛村宿毛町 平民 無職業   池田 延孝 35年6月
仝町 士族 無職業   宗武麻左米 44年5月
仝町 平民   山本 寅吾 33年4月
仝村宿毛 平民   黒川幸三郎 27年9月
仝所 士族 無職業   山本 六弥 33年5月
仝   浜田 三賢 45歳
仝   竹村 成明 39年10月
仝所 平民 無職業   宮尾 健造 24年6月
高知県幡多郡宿毛村宿毛   生田熊次郎 33年7月
仝村宿毛町 平民 無職業   長尾  栄 50年7月
仝所 平民   北村 儀又 47年10月
仝所中村中村町 平民   松本大次郎 20年6月
仝所仝  金子市太郎 19年
仝  福山勝次郎 28年10月
仝  福岡伝之助 24年1月
仝  竹村 三郎 26年6月
仝  藤倉豊太郎 27年1月
仝  佐野馬之助 26年8月
仝  山本吉次郎 32年6月
仝  寺内琴次郎 29年3月
仝  山崎文太郎 29年10月
仝  亀谷淺次郎 23年8月
仝所 平民 松浦 慶次事 山崎慶次郎 26年1月
仝所中村 士族 無職 小野 重弘事 小野 金廣 36年3月
仝所 平民 雑業 鹿取竜次郎事 鹿取乙次郎 27年9月
仝所中村町 平民 雑業 井上 栄次事 井上 栄治 27年11月
高知市南奉公人町 平民   岡崎熊太郎 40年7月
幡多郡和田村和田 平民   田渕 鉄次 17年7月
愛媛県南宇和郡高瀬村 平民 紙漉業   堀田 兼吉 42年1月
高知県土佐郡旭村石井 平民 無職業   渡辺松太郎 26年7月
愛媛県喜多郡平村大宇市木 士族 仲買商   大田重次郎 21才生月不知
高知県幡多郡上灘村大岐 士族 無職業   葛目  萌 23年7月
大分県宇佐郡香下村 平民 竹工   安部 孫市 18年9月
高知県高岡郡高岡村灘組 平民 桜木宇太郎事 桜木卯太郎 23年5月
住所不知 岡常萬十郎 年令不知
右兇徒嘯聚事件豫審ヲ遂ケシ処、被告吉田小次郎事吉田平太郎ハ明治25年衆議院議貝第2回総選挙ノ際膂力人ニ優レ且剣術ノ技アル故ヲ以テ雇ハレテ自由派ノ壮士ト成リ選挙競争ノ為、高知県幡多郡宿毛村ニ滞在中、同年二2月14日国民派ノ壮士大挙シ同郡和田村大字和田ニ来襲セリトノ報ニ接シ、其防禦ノ為一刀ヲ携へ旅宿室山源八方ヲ出テ、和田村ニ赴キ、同地街道ノ辺リニ数百名ノ同志ト與ニ屯集シ居タル所、翌15日午前3時頃幡多郡書記細川速水カ和田村投票所へ臨時出張ノ為メ、其街道ヲ通行スルヲ目撃シ、国民派中ノ者ナラント思量シ、他数名ノ同志ト與ニ右投票所ナル和田村役場へ尾行シ之ヲ暗殺スル目的ヲ以テ同所庭内ニ於テ被告吉田平太郎其携ツル所ノ刀ヲ以テ、先ツ速水ノ両手首ヲ斬リ、続テ7度ヒ頭部ヲ乱割シ蓋骨ヲ割シ煩悶号叫ノ裡ニ遂ニ之ヲ殺シタルモノニシテ、其事実ノ証拠十分ナリト思料ス、之ヲ法律ニ照スニ道路ニ刀ヲ携ヘタル所為ハ保安条例第5条全6条ヲ遺用スヘキ軽罪ニシテ、又参刻(残酷)ニ人ヲ殺シタル所為ハ刑法第295条ニ該当スル重罪ナリトス。依テ刑事訴訟法第168条ノ規定ニ従ヒ本件ヲ高知地方裁判所ノ重罪公判ニ付ス。
被告ハ此決定ニ対シ抗告ヲ為ズコトヲ得、其期間ハ此決定ノ送達アリタル日ヨリ3日内トス。
被告吉田平太郎ガ兇徒ヲ嘯聚シタリトノ事及被告山本重剛外35名カ兇徒ヲ嘯衆シ且ツ速水ヲ殺シタルトノ事実ハ何レモ其証拠十分ナラサルヲ以テ刑事訴訟法第165条ニ従ヒ、山本重剛、長尾栄、宮尾健造、生田熊太郎ハ免訴且放免シ、吉田平太郎外32名ハ各免訴ス
   明治25年5月16日  於高知地方裁判所中村支部
          豫審判事    田 中 恒 馬
          裁判所書記  伊 藤 利 馬
 右原本二依リ此正本ヲ作ルモノ也
   明治25年5月24日
    高知地方裁判所中村支部裁判所書記   伊藤 利馬  印
和田の古老達に聞いた細川速水殺害事件の現場の図は下の通りである。当時和田の役場はもとの和田小学校の南側である。                                          (橋田庫欣資料による)

細川速水殺害現場見取図
細川速水殺害現場見取図