宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-選挙干渉】

林有造・片岡健吉当選無効提訴

こうして2月15日の選挙は終ったが自由党も国民派も開票の結果が判明するまでは対峙の陣容を解かなかった。それは各投票所の成績は大体において判断できるから、旗色の悪い国民派は途中に壮士を潜伏させ、自由党の優勢な投票所の投票箱を奪い取らせる計画があるという事を自由党側が漏れ聞いたので、その防止の手筈をひそかにしていたのである。第1区第3区は自由党の固い地盤であったので、国民派のねらいは第2区に注がれていた。第2区の開票は須崎の高岡郡役所で行われた。前記の投票箱強奪のうわさが伝わっていたので、その護送振りは厳重を極め、警官の他に憲兵が護衛していたが、地の利が悪く交通が不便で強奪に適当な場所が多く、憲兵も警官も不眠不休、夜を日に継いで険しい道を通り、時には屈強な百姓に前後を守らせた所もあった。戸波村では国民派と自由党壮士の乱闘になり、即死1名、重傷2名、他に十数人のけが人を出したが、国民派は投票箱を奪う事ができず、腹いせに民家に火を付けたりした。
開票所においても、幡多郡和田村の投票の中に、不正があるといいだし、自由党の立会人が躍起になって、不正のない理由を主張したけれど、官権が国民派の苦情を承認したので、和田投票所の投票が無効となってしまい、2月25日に再選挙を執行する事になった。
なお再選挙が行われたことについては、『林有造伝』や『高知県第2区衆議院議員選挙投票紛失の始末』にも書かれているが、詳細についての資料は現在のところない。
開票の結果第1区の武市安哉、第3区の植木志澄は当選確定、問題の第2区で国民派の片岡直温が854票、安岡雄吉が844票で当選し、自由派は片岡健吉が771票、林有造が773票で枕を並べて落選したのである。片岡直温と安岡雄吉の当選は3月3日告示されたが、この開票に不正があったことが、片岡健吉と林有造の告訴によって暴露されたのである。
まず高知県自由党の代言人(弁護士)および公証人一同が原告となって、第2区選挙長中麻速雄(高岡郡長)以下立会人を相手取り選挙長以下が、詐偽の行為があったことは、刑法第235条に該当するものとして、高知地方裁判所に告訴すると同時に、後日の証拠として投票用紙を厳重保管するよう提訴した。
提訴の要点として原告片岡健吉は879票の得点あり、原告林有造は875票の得点あり、被告片岡直温が実際の得票746票の上に健吉の得票108を移して854票とし、被告安岡雄吉が実際得票742票の上に、有造の得票102票を移し844票として、当選を決定した事は不当であって、第1号から62号迄の証拠書類をもって実証するというのである。
その手続きとして、選挙人が第1に投票所で自筆で投票したか、代書を依頼した場合、誰に投票する事を依頼したか、記名下に実印を押したかどうか、第2にその投票所の管理者又は立会人は当日投票所に来ていたかの証明をとり、第3に選挙人の内、代筆を依頼した人はその代書吏員が依頼した片岡健吉・林有造に記入したという証明書をとったのであるが自由派に関係する各村の投票所の結果を集計すると次のようになる。
                  (この時の選挙投票記入は連記名であった。)
郡 村 名 林 有造
得 票 数
片岡健吉
得 票 数
自筆 代筆
吾川郡伊野村 28 26 26
仝   八田村 40 40 34
仝   神谷村
仝   森山村
仝   秋山村 44 44 37
仝   仁西村 12 12 11
仝広岡中の村 27 27 21
仝  仝下の村 50 50 46
仝広岡上の村 26 26 19
仝   諸木村 22 22 19
仝   木塚村 43 43 39
仝長浜浦戸村 41 41 14 27
仝上八つ組合
  小  計 350 350    
高岡郡高岡村 71 71 67
仝   蓮池村 34 34 32
仝   波介村 36 36 31
仝   北原村 35 35 34
仝   戸波村 29 29 23
仝   高石村 22 22 19
仝   新居村 28 28 26
仝   宇佐村 15 15 11
仝  浦の内村
仝  多の郷村
仝   吾桑村
仝   須崎村 12 12
仝   久礼村
仝  斗賀野村 32 32 11 21
仝   佐川村 51 55 21 35
仝   尾川村 10 10
仝  越智組合
仝   黒岩村 34 34 25
仝   加茂村 20 20 16
仝   日下村 17 20 16
仝   川内村 14 12 12
小  計 489 494    
幡多郡宿毛村 32 32 10 22
仝  和田組合
小  計 38 38    
総  計 877 881    
                『同知県第2区衆議院議員選挙投票紛失の始末より』

高知地方裁判所では、最初この提訴を受理して審議を進める模様だったから、自由派は公判の来るのを待っていた。しかし裁判所側は大審院や検事正に伺書を差出してこの指令を待つという態度だったから、ぐずぐすしていると当選無効提訴期限が切れるので、3月28日片岡健吉、林有造を原告、代言人山下重威・藤崎朋之・西原清東を代理人とし、片岡直温と安岡雄吉を被告として、大阪控訴院民事第2部長十時三郎に宛て選挙無効の裁判を求めた。
立証書類として添付された60余通のうちには両郡長罷免のこと、即ち吾川郡長三浦一竿は寛宏温和、民その徳に服し、高岡郡長陽等は公平無私、硬直の聞こえあり、何等過失がないにもかかわらず突然罷免せられ、三浦に代うるに吏党の領袖大脇之治をもってし、陽に代うるに高知県警部保安課長中摩速衛をあてた。特に中摩は薩摩人で県内の事情には疎き人物であることを挙げ、又吾川郡の投票所を急に変更し、高岡郡役所の投票時間を偽って自由党立会人に不便を与えた事、抽せんの方法が不明瞭であった事、投票を混合したこと、氏名朗読を躁(早)急にして判断を困難ならしめたこと、自由党候補者投票は朗読しないものが多かったことがその主要なものであった。
特に第2区の投票は当訴訟に必要な証拠物件であるから、紛失や隠匿を予防する為、開廷を待たず証拠保全の処置を申請したが、この申請は容れられず、投票紙取寄せの申請ならぱ許可されるというので、4月11日にその事を申請、控訴院から高岡郡役所に投票紙提出の照会を発した所、驚くべきことに和田村の再投票が2月29日で、投票箱は3月9、10日の間に紛失したという回答があった。これが郡当局の作為であった事はいうまでもない。

選挙無効訴訟の資料
選挙無効訴訟の資料
林有造・片岡健吉当選確定
片岡健吉と林有造の告訴は大阪控訴院から大審院、更に名古屋控訴院に移されて審理の結果、明治26年4月6日に2人とも当選が認められた。片岡直温と安岡雄吉の2人はこれを不当として大審院に上告したが、6月6日上告の理由なしとして却下され、世論をわかした選挙干渉問題は厳しい世論と法の前に解決した。

第2回総選挙の影響
松方内閣の選挙干渉は、明治25年5月2日に召集された第3回臨時議会で当然問題化され貴族院では5月11日山川浩の緊急動議によって政府の反省を求める建議案を可決したが、衆議院は翌12日、河野広中の政府問責上奏案を否決した。内務大臣品川弥二郎は朝野の攻撃に耐えかねて、3月11日既に辞職していた。議会終了後、7月30日松方内閣は瓦解、8月8日伊藤博文による第2次伊藤内閣が組織されたのである。
然し、この第2回選挙は干渉の悪例を残しただけでなく、選挙の地方的影響として土佐の場合、党派的反感から政治的経済的にも打撃を与えた。即ち選挙後も敵味方の感情を捨て切れず、自由派は国民派を犬猫とののしり、国民派は自由派を国賊と呼んで、購売力を高めるべき商取引きにおいてもお互い取引きをしなくなり商売が不振になったりした。甚だしいのは親しい人であっても交際をしなくなって口さえきかなくなり、有志が何とか調停に乗りだしたがその有志もどちらかの党派に属しており、両派の反目を解決するにいたらなかった。4月上旬谷干城が高知までやって来て調停に乗リだした。谷はもともと国民派の巨頭であったが、選挙に対する態度は公平であったし、両派のおもだった有志と会見し、党派的感情にとらわれず調停に努力したので、反目もしだいに薄らぎ平常の取引きをするようになった。
選挙に絡むこうした斗争は他県には見られない土佐独特のものであって、土佐人気質の一端をうかがうことができる。