宿毛市史【近代、現代編-自由民権運動-政党政治の変遷】
政党政治の変遷
松方内閣は、選挙干渉の責任者品川内務大臣を退けて河野敏鎌に代えたが、その失政に対する世論にたえずついに瓦解し、25年8月第2次伊藤内閣が出現した。政府と政党との対立、自由党と改進党との交渉など政界の事情は複雑性を加えたが、同27(1894)8月清国との開戦によって挙国一致の態度を明らかにした。
日清戦争における日本の戦勝は、政界にも新しい変化をもたらした。すなわち第2次伊藤内閣は戦後経営に関する野党の攻撃を防ぐために、板垣退助を入閣させることによって、自由党の支持を得た。ついで松方正義は大隈重信と提携して明治29年9月18日内閣を組織し、進歩党の支持を得た。改進党はすでに弱体化して自由党に対抗することができなかったので、主張を同じくする立憲革新党をはじめ4、5の小数政党と合体し、進歩党として新しく出発したのである。しかしその協調はまもなく破れ、これに代った第3次伊藤内閣は依然として藩閥を代表したものであった。そこで自由党と進歩党は藩閥政権打倒を目標にして、これまでの党派的感情を捨て合同の歩みを進め、新しく憲政党を組織した。伊藤も自ら政党を組織してこれに対抗しようとしたがついに成らず、明治31年6月政権を大隈と板垣に譲った。大隈・板垣によって組織された憲政党内閣は、最初の政党内閣として注目されるものである。この時逓信大臣に林有造が任命された。
しかし大隈内閣は絶体多数の与党議員を占めながら党派感情のため内部協調が保てず10月には憲政党を解散して、旧自由党系は憲政党を再組織し、旧進歩党は分離して憲政本党を名のリ、政党内閣はわずか4か月で崩壊した。このようにして再び山県有朋による藩閥内閣が生まれた。
最初の政党内閣は失敗したけれど、政党の政治における地位は次第に認められ、伊藤博文は自ら立憲政友会を組織した。(明治33年8月)その主体になったのは憲政党であって、板垣退助はその党を伊藤に譲って政界を退いた。
政友会組織にあたって、高知県選出の片岡健吉ら各代議士はこぞってこれに参加し、高知には政友会支部が設けられた。(明治33年11月)
高知には日清戦争の頃から少壮実業家による一日会が結成され、これが自由党内の革新派と合流して肝胆会を組織した。市部を本拠としたので中央派と呼ばれ、これに対して郡部派と呼ばれたのは農村を背景とするもので有隣会と称し、自由党内におのずから2派が対立した。板垣の政界引退に伴い、これが表面化し中央派は片岡健吉をたより、郡部派は林有造を推してたがいに勢力を争った。
国民党は革新倶楽部を組織し、中央派と接近して明治35年8月の第7回総選挙には無所属の加藤高明を議会に送り、翌年3月の第8回総選挙には大石正巳を選出して憲政本党に議席を獲得さした。こうして自由党の地盤は崩壊しはじめたのである。
明治36年(1903)5月の第18回議会で、桂内閣の予算案に政友会が妥協した時、これに反対した片岡健吉・林有造・竹内綱・楠目玄等は、こぞって政友会を脱党し、高知の政友会支部もこれとともにすることになり、中央派、郡部派は革新倶楽部と合体して海南倶楽部を組織した。まもなく片岡健吉が病没(明治36年10月31日)すると郡部派は海南倶楽部を離れて自由倶楽部をつくり、林有造を支持して自由党再興を試みたが、もはや昔の夢を追うことができず、2年後には政友会に復帰した。
高知の政界は立憲政友会と桂太郎の組織した立憲国民党に両分され、県政はもとより市、町、村の自治体まで党派的な対立がみられた。
大正7年(1918)原敬が政友会内閣を組織し、政党政治に強い基礎を固め、制限選挙を廃して普通選挙法を大正14年に国会で議決した。昭和3年普通選挙による総選挙を実施し、政権は田中義一の政友会に帰した。昭和4年7月には田中内閣に代わって浜口雄幸が民政党内閣を組織した。翌5年11月右翼分子に狙撃され負傷のため退陣し、後継の若槻内閣も軍部の圧力によって退陣し、ついで政友会内閣が組織されたが昭和7年(1932)5月総理犬養毅は青年士官に射殺され、軍部の力が強くなリ、政党政治は封殺され、満州事変から太平洋戦争へと日本は軍国主義の道をたどり、軍人が政治の実権を握り、昭和17年2月には東条首相は、「翼賛政治体制協議会」を組織し、同年4月30日施行の衆議院議員選挙には、翼賛会推せん候補が当選者の8割、381名に達し、非推せん者は85名に過ぎなかった。高知県の場合
当選 依光好秋(推せん)
同 中越義幸(推せん)
同 小野義一(推せん)
林譲治(無所属旧政友会)佐竹晴記(無所属旧社大党)氏原一郎(東方会)ら非推せんの期待された候補は落選した。これを世に翼賛選挙という。
わが国における政党のあゆみ
(1)立憲帝政党
:1882
:
: (2)立憲改進党(大隈重信) (3)自 由 党(板垣退助)
: | 1882 | 1881
: | ↓
: | 立憲自由党
↓ | |1890
国民協会 ↓ ↓
|1892 進 歩 党1896 自 由 党
| | |1891
| ------------------------------------------------------
| | (板垣・大隈)
↓ 憲 政 党
帝 国 党 | 1898
|1899 ------------------------------------------------------
| | |
| 憲政本党1898 憲 政 会1898
| ↓ ↓
| 立憲国民党1910 (4)立憲政友会
↓ | (伊藤博文)1900
- - - - - - ------------------------ |
| | |
立憲同志会 立憲国民党(犬養 毅) |
(加藤高明) | 1913 |
|1913 | |
| 革新倶楽部1922 |
| | |
| -------------------- |
↓ | |
憲 政 会 --------------------------------------------
|1916 | | |
日本共産党 農民労働党 | 政友本党1924 | 立憲政友会
:1922 | 1925 | | |
: 農民労働党1926 | --------------------------
: (大山郁夫) -------------------------------------- |
: | | 立憲政友会
(検 挙) | - - - - - - - - - - - - - - - | | 1925
(堺 利彦) |日本労農党 日本農民党 | | |
: | |1926 |1926 | | |
: | ------------------ | ↓ |
: | | ↓ (5)立憲民政党 |
: ↓ 日本大衆党 社会民主党 (浜口雄幸) |
: 労働者農民党 |1928 (安部磯雄) |1927 |
(解 党) |1928 | |1926 | |
: ↓ ↓ | | |
: 労 農 党 全国大衆党 | | |
: |1929 |1930 | | |
: | | | | |
: ------------------------------| | |
第2次共産党 | | | |
:1928 全国労農大衆党 | | |
: | | | 東 方 会 |
: |1931 | | (中野正剛) |
: ------------------ | |1936 |
: | | | |
: 社会大衆党1932 | | |
: | |解党 |解党 |
(検 挙) ↓ 解党1940 ↓1940 ↓1942 ↓解党1940
: ======================
: ↓
: ------------------------
: | (6)大政翼賛会 | 戦前
: ------------------------
:
: 戦後
: 日本進歩党 日本協同党1945
: (8)日本社会党 |1945 |
: (片山 哲) | 共同民主党1946
↓ |1945 日本民主党 | (7)日本自由党
日本共産党 | (芦田 均) 国民協同党1947 (鳩山一郎)
(徳田球一) ----------------------------- |1947 |(三木武夫) |1945
(再建) |1945 | | | ---------------- |
| 労働者農民党 ------------ 社会革新党 | |
| |1948 | 1950 | |1948 国民民主党 民主自由党
| | 左派 右派 | |1950 (吉田 茂)
| | | | | | |1948
| | ------------ | | |
| | | | 日本改新党 |
| | ------------ | |1952 自 由 党
| | | 1951 | | | |1950
| | 左派 右派------- | |
| | | |1955 日本民主党 |
| | ------------ |1954 |
| | | | |
| | | | |
| --------------|1960 | |
| | | |
| | | |
| ------------------ ----------------------------------
| | | |
| 日本社会党 民主社会党 (10)公明党1964 (9)自由民主党1955
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摘 要
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(1) | 1882~83 自由民権運動期の政府の御用政党、自由党・改進党の結成に対抗して福地源一郎らが結成 |
(2) | 1882~1896 イギリス風の穏健な立憲主義を唱え、おもに都市の商工業者や知識階層の人々に支持された。 |
(3) | 1881~84 自由民権運動の中核となつた政党、豪商、地主から貧農まで含んだが政府の弾圧と切崩しや内部分裂によリ解党 |
(4) | 1900~40 戦前、民政党と並ぶ、二大政党の一つ。伊藤博文が議会対策のため、旧自由党系の憲政党を中心に結成 |
(5) | 地主的な政友会に対し、都市の商工業者が中心 |
(6) | 1940~45 日中戦争のゆきづまりを打開しようとした第2次近衛内閣が国内の戦時体制を固めるため、国民統制の中核機関として結成、すでに有名無実化した政党は、ことごとく解散させられ、この組織の傘下におかれた。 |
(7) | 1945~48 戦後、旧政友会系の保守政党、初代総裁鳩山一郎の公職追放で吉田茂が総裁となる。48年日本民主党脱退派と民主自由党を結成、50年自由党 |
(8) | 1945~ 戦後旧社会大衆党など無産政党系各派によって結成、1947年第1党となリ、片山内閣を組織、51年サンフランシスコ条約をめぐって左右両派に分裂、その後55年に再統一したが60年には、旧右派の西尾末広らが脱党して民主社会党を結成した。 |
(9) | 1955~戦後 自由党・日本民主党の保守合同によって成立した統一保主党。 |
(10) | 1964~1961 公明政治連盟(創価学会の政治結社)を結成、1964年中道革新を唱え正式に政党を結成する。 |