宿毛市史【近代、現代編-地方制度の変遷-地方制度と宿毛人】

地方制度と宿毛人

大江卓の郡県論
日高野山から帰った大江卓は明治元年(1868)2月15日大阪より高知に着き、宿毛邸で宿毛兵が東征軍に加わることについて竹内綱・林有造等同郷人と合議し、伊賀陽太郎(宿毛山内家の嫡子)の賛成を得て、藩の執政深尾丹波に建議したが容れられなかった。
そこで大江は深尾執政が大勢に疎い事を笑い、一歩進んで中央の形勢が如何に急変しているかを説いて、しきりに郡県論を主張した。
「土佐は徳川の一門でこそないが、由縁の深い親藩であるということは、容堂公以下藩当局が常に云っている所である。この為維新の大勢に乗る事の機会を失ったのであるが、徳川の親藩としていばるのであるなら、慶喜公が既に大政を返上した今日であるから率先して藩政返上を実行してはどうか、土佐藩が他藩に先んじて版籍を奉還したら、徳川の情義にも叶うし、また勤王の大義にも合致するのではないか」(『大江天也伝』)と論じた。
これは一個の書生論であるとして、深尾執政によって一笑に付されたが、約1年後の明治2年2月、二百数十の諸侯の版籍奉還が実現し、郡県論の方は、明治4年7月14日廃藩置県令によって実現した。彼の先見の明の鋭さの一端の現われであるといえよう。

竹内綱と大阪町村会
竹内綱は明治3年2月大阪府七等出仕を振出しに翌4年2月には大阪府少参事に任命された。彼が在任中、西四辻知事、吉井大参事から信任されて府の施政上取締制度の創設、非人追払い、町村会設置・・・・・、河川改修、築港計画等、その意見の実行せられたものは少くなかったが、町村会の設置について、その自叙伝において次のように述べている。
「当時大阪市外の各町村は、幕府時代より幕府・諸藩・旗本・社寺の領地が入りまじり、境界がはっきりしないで、支配の制度も一定しておらず、道路はせまく迂回しており、車馬の往来に不便であった。それに庄屋、老役の人々が『わいろ』をもらっていたりして弊害が多かった。そこで自分は、まず各町村の区画や道路を改修し、町には町会、村には村会を設け、町村内居住の戸主より11名の議員を選挙し、その議員で町長・村長・助役を選挙させ、毎年議会を開き、公共年中行事、予算を議決する制度を作った。このため道路もよくなり、町村吏の収賄等の弊害もなくなった。此の町村会制度はもとより完全でなかったが、諸府県町村会の嚆矢であった。」(『竹内綱自叙伝』)
以上のように竹内構想による町村会制度は、一応住民自治の原則の上に立つ公選民会の開設を意図したものであるともいえるし、土佐蒲において成立した民権的議会論を大阪府において実施したものともいえる。
新政府において町村会の設置を公認したのは明治11年7月22日で太政官布告による郡区町村編制法が発布され、太政官号外達で町村会議又は区会議開設の道を拓いた。だから明治4年の大阪府における竹内の町村会設置は、地方制度について先見的な価値を認めることができる。

高知県大参事林有造
明治4年の「廃藩置県」により、高知藩は高知県と改められ、藩知事山内豊範は職を退いて家族と共に東京に移住する事になり、大参事として知事を補佐し実権を握っていた板垣退助は参議に任命され中央政府に入り東京へ移った。藩政から県政への切り替えという困難な使命を負わされたのは、権大参事として板垣を補佐していた林有造である。
政府命令によりヨーロッパを視察し、帰国後林は御用滞在を命ぜられ、陸軍省出仕の話もでたが板垣の要請によって高知に帰り、5月15日少参事に就任、手腕を認められ、6月15日に権大参事に昇任した。7月14日廃藩置県後は高知県大参事として県政を担当した。11月15日政府が「県治条例」を発表する事によって大参事を改め、参事の地位を与えられた。
参事というのは府知事とか、県令を補佐して政務に参与する職名で地方長官ではない。この場合高知県には、まだ県令も権令も任命されていなかった。それは高知県が政治面でも、文化面でも劣等視されていたことにもなるであろう。いずれ実際上林は地方長官の任を務めた訳であり、藩政時代にできた莫大な赤字整理や藩札処理に大いに努力し、明治5年11月には手腕を認められ、外務省出仕を命ぜられ東京に移った。