宿毛市史【近代、現代編-軍事-日清戦争】

日清戦争

日清戦争は明治27年(1894)8月1日にはじまり翌28年4月17日終った。
この戦争は我が国が外国を相手取り、外地において戦ったはじめての戦争であった。この戦争の要因については、既に多くの記録が残されているので郷土部隊の動向を中心に簡単に述べてみる。
明治9年(1876)日鮮修好条約を結び、朝鮮の独立を尊重確認したが朝鮮支配層の中にも、親日派と親清派の対立があり内紛が絶えなかった。
明治18年(1885)清国と天津条約を結び、朝鮮から同時撤兵と将来派兵の相互通告などを約束した。
明治27年6月、朝鮮に東学党という農民の革命的な反乱が起きると、清国は属国保護の名目で出兵したので、日本も居留民保護の為出兵し暴動は鎮圧されたが我が国は清国に対してこの際、韓国内政を共同して改革すべきであると提議したが清国はこれを拒絶した。こうして遂に豊島沖の戦をきっかけとして8月1日、宣戦を布告し、黄海の戦いに続き、平壤、旅順、威海衛を攻撃するなど勝利を収め翌28年4月講和条約(下関条約)を締結した。
条件は
  1 遼東半島と台湾、澎湖島を譲る
  2 賠償金2億テール(約3億6千万円)を支払う
としたが、その後、露、独、仏の三国干渉があり、日本は遼東半島を還付することになった。

郷土部隊の出軍
郷土の軍人も27年6月から7月にかけて第22連隊や補充部隊に編入されて戦い幾多の犠牲者も出た。
『幡多郡誌』によると幡多郡出征者の内、42名が戦死又は戦病死している。宿毛の出征兵士の人数は不明であるが戦死者は次の3名となっている。
山本彌太郎(宿毛町) 上岡 良馬(小筑紫町) 佐野 広吉(宿毛)       (宿毛市戦没者名簿より)
その他中央より将校として戦役に参加して武勲をたてた宿毛出身者としては
酒井  融  野津大将の率いる第一軍の糧廠部長(少将待遇・実際は中佐であった)として活躍する。
岩村 俊武 (岩村通俊次男)威海衛攻撃に際して、海軍大尉で水雷艇長として偉勲をたてる。(後海軍中将)