宿毛市史【近代、現代編-軍事-日露戦争】
日露戦争
日清戦争後、列国は清国へ侵略の手を延ばしはじめたので、外人排斥運動が高まり、明治33年義和団の乱が起った。
平定後も露国は満州から撤兵せず、35年日英同盟を結ぶと再び増兵し、清国進出をはじめた。日本は遂に明治37年2月旅順港を攻撃して宣戦を布告し、日露戦争へと突入した。
わが郷土部隊(第44連隊)も乃木将軍の率いる第3軍に属し、遼東半島に出動、特に8月から年末にかけて旅順要塞の攻略に参加し、東鶏冠山、盤龍山などにおいて多くの死傷者を出した。宿毛出身者の中からも多くの犠牲者がでた。
その後、3月10日の奉天大会戦、5月27日の日本海海戦において大勝利を収め、明治38年(1905)9月5日、ポーツマス講和条約を締結して戦争は終結した。
日露戦争における郷土部隊の活躍の陰には、この戦争を国民的戦役とふまえ、在郷の者は政府の軍事公債の発行に応じ、恤兵費を醵出し、兵士へ慰問袋を贈り、又恤兵を目的とした婦人会を作って活動した。
幡西婦人会(伊賀男爵の母堂、竹内明太郎母堂等名流婦人が会の中心として働いた)中村町婦人会(中村高等小学校女教員が主として斡旋した)が中心であった。
「千人緘ぢ」なるものを作ったり、寺院、神社等で武運長久、敵国降伏の参詣をして戦勝を祈願した。また官吏や学校の教師達は書物により、また幻燈会を開催して戦争の状況を報じ精神教育をしたり、出征軍人の家族の田植、麦蒔を手伝ったリして国民的志操の涵養に努めた。(『幡多郡誌』)
 |
千人緘ぢ |
宿毛出身戦没者
出征人員 146名(旧宿毛町のみ、他は不明)
戦 死 者 60名 (現宿毛市全域)
戦死者内訳
宿毛町 29名
秋沢 要 | 川島 武城 | 岡本 秀松 | 黒川 寅次 | 頼田寿恵吉 | 竹葉 幹助 | 稲田登木吉 |
佐田秀五郎 | 広畑 林馬 | 山下 力馬 | 竹田 百造 | 大江狷太郎 | 山崎初太郎 | 後田 徳 |
河野 悦次 | 中山 栄治 | 岡田 俊次 | 島崎 堅固 | 加藤 駿寿 | 谷本久万次 | 山本 鉄石 |
中野 定次 | 高橋 末吉 | 佐野 広吉 | 嘉木山彌市 | 畑中 義一 | 中川 専次 | 山下 清吉 |
竹内松右衛門 |
小筑紫町 16名
田岡豊太郎 | 河原国太郎 | 中平銀太郎 | 谷川 春太 | 溝渕 銕馬 | 山中 善吉 | 浜田 豊次 |
山本里之児 | 西野 銕馬 | 中西円太郎 | 曳田千代吉 | 堀岡 佐吉 | 森田 光馬 | 原 藤太 |
宮本和之助 | 上岡林太郎 |
橋上町 5名
後田 馬次 下村 嘉助 柴岡巻之助 有田 節馬 篠原佐馬次
平田町 4名
中橋佐一郎 溝渕 安衛 畑中 種次 今城 嘶馬
山奈町 2名
瀧本 直次 中平 平次
沖の島町 2名
後田 和介 | 田中留三郎 | 田中茂喜三郎 | 冨田繁三郎 | 間 鹿太郎 | 川渕 貞吾 | 原田 嘉作 |
戦死場所としては東鶏冠山の戦闘による場合が多い。
軍国主義への道
日露戦争に大勝利を収めた我が国は、韓国における政治、軍事、経済上の特権を獲得し、満州におけるロシアの権益をそのまま譲り受け、更に樺太の北緯50度以南を領土とした。
その後軍事的にも世界の列強国となり、大正3年第一次世界大戦に参戦、大正7年にはシベリア出兵、そうして昭和6年9月18日満州事変をきっかけとして同7年1月16日上海事変と軍部の計画による大陸侵略政策はますます露骨となり、満州国の建設、国際連盟からの脱退を経て同12年(1937)には日華事変にまで発展した。
 |
軍隊手帳 |