宿毛市史【近代、現代編-軍事-日華事変・太平洋戦争】

日華事変・太平洋戦争

昭和12年7月7日蘆藍溝橋での日中両軍の衝突から戦端が開かれ政府の不拡大方針声明にもかかわらず、戦線は北京から上海、南京、漢口にのび、日本軍はついに広東を占領して南支作戦を展開したのち仏領印度支那に進駐した。これは重慶に退去した国民政府への援助物資ルートを切断する目的であったが、これが第二次世界大戦に突入するきっかけとなったのである。この頃アメリカは日本の中国侵略を阻止する為にイギリス、オランダと共に日本に経済的圧迫を加え、中国を支持してABCDラインを結び日本の軍事資源枯渇を図ったので、日本は昭和16年(1941)12月8日アメリカとイギリスに宣戦を布告した。
戦争の記録については、防衛庁防衛研修所戦史室等からも相当詳しい記録が発刊されており、郷土部隊の活躍についても、陸上自衛隊第十三師団司令部師団史編さん委員会による『四国師団史』等が詳しいが、朝倉第四十四連隊の動向を中心にして記録を追ってみる。

郷土部隊の動向
昭和12年8月18日朝倉第44連隊、和知部隊征途に就く。8月23日、中支に上陸、連戦、9月23日羅店鎮付近の激戦で多くの戦死者を出す。
昭和13年3月凱旋、10月満州牡丹江方面に出動、国境警備につく。
昭和14年10月鯨部隊を編成して中支戦線に出軍し、各地で活躍した。
昭和15年8月新たに第144連隊を編成。
昭和16年11月23日、南海支隊(楯8417部隊)に編入され、小笠原諸島の母島に向う。12月4日母島からグァム島へ、更に同17年1月23日ニューブリテン島のラバウル着、同年5月ニューギニア作戦により同島北岸へ上陸、9月スタンレー山脈突破作戦によりポートモレスビーに迫ったが酷熱とジャングルに災され、背後のガダルカナル島守備隊も撤退した。ニューギニア北部要地も奪還され、スタレンー山脈突破部隊も大損害を受け、合わせて戦死、戦病死者3350名を数えた。
昭和18年7月、第144連隊の残存主力はラバウルヘ到着したが、ビルマ方面へ転進を命ぜられ、12月3日ラングーンに集結(第55師団)ビルマ方面の作戦に参加することになった。然し既に制空権もなく、兵器・食糧不足に悩まされ、敵と遭遇するごとに戦死傷者は続出、戦線から脱落して生死不明者も増加するぱかりであったが、昭和20年8月17日になって終戦の確報を得た。ビルマ方面の戦死者約1,700名、高知編成の部隊では最も多くの損害を出した。(『高知県史』)
日の丸の寄せ書
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