宿毛市史【近代、現代編-軍事-宿毛湾の防備】

宿毛湾の防備

満洲にあった第44連隊は、本土戦線の緊迫化により、昭和20年4月東満洲虎林を後に朝鮮を経て高知に帰り敵前上陸に備えた。
錦部隊(坂本俊馬大佐)として高岡郡弘岡を中心に、東部は4月1日にあらたに編成された第451連隊護土部隊(森田豊秋大佐)が守備につき、須崎以西は剣山部隊が海軍特攻隊と共に配備された。
昭和20年5月初旬頃における第2総軍の情勢判断では、敵は南部九州と共に南部四国に対し、同時又は相前後して作戦する公算が大であるとし、この場合四国は孤島的存在で、我が兵力を迅速に集中することが困難であるのに対し、敵は比較的容易に上陸ができ、特に高知平野付近の飛行場確保によリ、戦闘機の小型機も容易に関東地方まで行動できるものと判断された。
このため四国方面の兵備も遂次重視され、一時第16方面軍の隷下に編入されて広島付近に配置されていた第205師団が、6月19日第55軍の戦闘序列に編入され、高知付近に配備された。更に第三次兵備により臨時動員された第344師団、独立混成第121旅団及び野戦砲兵部隊等が6月19日第55軍の隷下に編入される事になった。宿毛湾及び徳島付近に各一個兵団を配備して持久する計画であった。
そして四国における作戦は、同島所在の兵力により実施し、他方面からの増援は予定されていなかった。
また四国方面の海上作戦は、呉鎮守府司令官が担任し、高知、須崎、宿毛、小松島等には海軍特攻部隊が配置された。
宿も湾正面の防備にあたった第344師団(剣山)の編成
師団長横田豊一郎中將 (陸士25期)
参謀長福山芳夫大佐  (同35期)
師団司令部中村
歩兵352聯隊長中島美光大佐   (八幡浜・宇和島に配備)
〃〃353〃〃〃前田敏夫大佐   (中村)
〃〃354〃〃〃道盛 清中佐   (宿毛)
   (3大隊欠)
師団噴進砲隊
   工兵隊(Z)主力は中村方面
   通信隊(Z)   〃   
   輜重中隊   〃   
   野戦病院   〃   
以上が344師団のおもな編成である。
これは昭和20年5月23日編成発令されたもので、師団司令部は6月上旬に編成完結、従って陣地構築もなく部隊を配置したばかりで市内の各学校を兵舎に使用、学校はお寺や神社等で分散授業をするというような状態であり、小銃等も数が不足して歩兵全員に支給できず、竹光の銃剣、竹製の水筒等その装備は極めて劣っていた。大隊本部は錦の新城山を予定し構築にかかっていた。
次に配備概要図(防衛庁戦史編さん室作成)によると海軍陸戦隊がかなり多く配置されていること、鵜来島の大砲以外は皆内陸の方に向けて据え付けていることである。これは上陸艦船を砲撃するには小さいし、艦砲射撃を恐れて、上陸した敵を背後より攻撃する為であった。

宿毛湾配備概要図
宿毛湾配備概要図
宿毛湾正面宿毛湾配備概要図大東亜戦史編纂室資料
 ・歩兵第354聯隊Ⅰ、Ⅱ大隊(Ⅲ大隊は中村方面に配置)
 ・独立山砲兵16聯隊の8中隊(九四式山砲×4)
 ・工兵1個小隊
 ・海軍陸戦隊2個大隊(1個大隊約1500名)
 ・師団墳進砲隊1/3中隊(墳進砲×4門)

海軍特攻部隊の配置は呉鎮守府隷下の8ZS(第8特攻戦隊)の21ZG(第21突撃隊)に所属するもので昭和20年7月27日展開発令済となっている。それによると
 海 竜 12隻(全長7・26メートル→17・26メートル20ノット、行動半径4・3キロ→43キロ)
 回 天  8隻(1人乗りの小型潜水艦)
 震洋艇 50隻(ボートの先に爆薬をつけたもの)
これ等特殊潜航艇を隠匿する場所として海岸に横穴を掘っている所は、沖の島母島、栄喜、大月町古満目、土佐清水の越浦、愛媛県南宇和郡深浦などである。当時海軍の御用商人をしていた兵頭健吉氏によると潜航艇が実際に配置されたのは古満目と深浦だけであったとの事である。沖の島の母島も基地だけはできたが、回天は実際に配備されずに終戦となったのである。
                             (防衛庁防衛研修所編『戦史叢書』及同特別資料)

回 天 越の震洋艇基地
回 天 越の震洋艇基地

宇須々木の海軍基地
宇須々木の海軍基地については当時軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんどないが、聯合艦隊がひんぱんに宿毛湾に投碇しはじめたのは、昭和7年頃からである。
兵頭健吉氏は昭和8年に町長、憲兵の訪問を受けて、御用商人の話があり、呉鎮守府に呼ばれ、荒木少佐よりテストを受け、その後御用商人の指名を受けたとの事である。当時海軍は1月頃より艦隊ごとの訓練がはじまり、5月頃全艦隊が宿毛に集結、戦技訓練の総仕上げをしていた。司令長官・参謀長等も度々上陸し、会談する機会も多かったようだ。(当時の参謀長や艦長の書簡が兵頭氏宅に保存されている)
兵頭氏の仕事は主に糧食(味そ・醤油・豆腐・コンニャク・野菜・肉・魚)の補給と水の補給で、特に水の補給については昭和9年に国の補助率3割3分、10万円の工費で宿毛の上水道が完成したのも海軍への水の補給が一つの目的であった。その他ゴミの処理特に文書類は機密保持の立場から同氏が引き受けて処理していたという。
宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで兵舎2棟の完成は昭和11年で、司令は海軍大佐が来ており兵員約200名、おもに艦載機の寄港基地として利用され陸揚げ、給油、整備をしていた。昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。訓練は定期的でなく、又訓練日程も知らされず、実戦が主になったもようである。昭和15年日本軍が仏印へ進駐した際、旗艦足柄・巡洋艦4隻を中心とする第7戦隊(隊長中原中将)は宇須々木に集結して出撃した。
昭和20年の終戦前には、海軍陸戦隊用として、3個大隊10日分の食糧を非常用として楠山及び篠山に分散貯蔵していた。終戦後、兵頭氏は軍関係の仕事をしていたため、占領軍に逮捕され高知で取調べを受けたと話してくれた。なお、宇須々木が海軍航空基地として、昭和18年に使用されていたが、『航空隊一覧』には次のように記されている。
航空隊名水陸別開隊年月日所  在  地機種解隊年月日
宿 毛 昭18・4・1高知県幡多郡水偵昭19・1・1
昭和18年4月1日第3艦隊50航空戦隊に編入・水偵搭乗員練成隊
昭和19年1月1日宿毛空を453空と改称、佐世保鎮守府に所属(指宿航空隊へ)
  配備機種及び機数(野口氏の資料による)
   ○二座水上偵察機  9機
   ○三座水上偵察機  9機
   ○二式水上戦闘機  9機
 初代分隊長 野口 克巳大尉
 隊  員  250名
 隊長野口克巳氏(中村市有岡出身)によれば、宇須々木は波の関係で水上機の練習にあまり適していなかったので、鹿児島県指宿航空隊配属となり移動したとの事である。

宇須々木の海軍兵舎跡 感謝状 宇須々木地区の退避壕 宇須々木の貯油庫壕
宇須々木の海軍兵舎跡 感謝状 宇須々木地区の退避壕 宇須々木の貯油庫壕

鵜来島の砲台
宿毛湾防備図に記載されている15糎砲3門の備付について、当時鵜来島漁業組合長兼部落区長であった田中増之助氏の談によると、
「砲台は、昭和16年12月の大東亜戦争開戦の時には既に3門共備え付けられていた。
豊田海軍大将が直接島へ上陸して調査をした後、大分の後藤組が工事を請けおっていた。龍頭山頂(252メートル)の砲台と西側の衛所(無線基地)及び発電所の工事には2年位かかった。大砲を山頂にあげるのは呉工廠から技術者が来てあげた。この工事の主体は後藤組が中心になったけれど、セメントや土砂の陸揚げ、又山頂までの運搬、道路作りは島民の勤労奉仕であって、軍から要請があれば漁に出るのもやめて労力を提供した。
砲台の責任者は海軍少尉か中尉で、兵よりたたきあげられた人らしく、兵は120人位いた。衛所の方も100人位の人がいたが、砲台と衛所はあまり仲がよいようではなかった。
勤労奉仕の配分は私が責任をもって割りあてたが、そんな時に感情的な面があることを感じた。軍の食糧は片島小川芳男さんが御用商人で、片島より船で運んでいた。食生活は十分でなかったとみえて、よくひもじいというので島民がいも等をむして食べさしたり、鰹を釣った場合、砲台や衛所へよくやったりしていた。魚のない時、軍隊はダイナマイトを使用して魚をとったりしていた。
当時鰹船(動力船)は島に3隻あった。自分も1隻所有していた。他に「しび繩」船を持っていたが軍へ徴用された。
大東亜戦争が始まってから宿毛湾付近の海域は特定区域となり、出漁する船は軍の許可を得なければならなくなり(標識をつける)、沖の島水域は絶対特定区域に指定され、動力船の使用は一切禁止となリ、昭和17年だったと思うが、沖の島村長以下区長、漁業組合長は宿毛警察署に呼ばれて(県からも役人が来ていた)漁ができにくくなったので、開拓民として満洲へ移民することを勧められた。島に帰って島民に話した所、自分達は海草を取ったり、伝馬船で一本釣リをしてでも島から離れたくないとの意見が強く、その要望を持って大分県の佐伯防備隊(海軍)へ行き実情を訴えたが、はじめ会った下士官はその陳情を不届き者という事で受付けてもらえず、つまリ佐伯で3日滞在、3日目に将校の人が会ってくれ事情を話した所、自分等はそんな連絡をした事もないし、むしろ勤労奉仕等の協力を頼むという事で満洲行の話は問題にならずに済んだ。当時の軍の力というものはえらいもんだった。」と語ってくれた。
なお、この大砲は昭和20年3月頃、沖の島沖に敵潜水艦が浮上した時撃つので、島民を避難さすよう連絡があったがついに撃たなかった。つまり据え付けて一発も発射していない。
沖の島と鵜来島の軍事施設は終戦後アメリカ軍によって一部爆破されたが、残った兵舎を新制中学の建築資材として沖の島村が高松財務局に昭和21年5月23日付で払下げ申請をしているので、当時の施設のあらましを知ることができよう。申請書の内容は次の通りである。
  元海軍施設物
1、 防備衛所  42坪79  土佐沖の島防備衛所
     52坪62    上   仝
2、 兵舎及附属建物 106坪44      〃
3、 自力発電所  29坪24      〃
4、 喞 筒 所   6坪      〃
5、 自力発電所   8坪  鵜来島防備衛所
6、 仝 油 庫   1坪      〃
7、 第1喞筒所   1坪50      〃
8、 第2喞筒所   1坪50      〃
9、 兵   舎  46坪  鵜来島海面砲台
10、 烹炊所及浴場・洗面所  32坪      〃
11、 兵舎烹炊所渡廊下  17坪50      〃
12、 便   所   4坪      〃
13、 指 揮 所  17坪50  鵜来島砲台
14、 同 便 所   0坪50      〃
15、 弾 薬 庫  12坪71      〃
16、 喞 筒 所   3坪      〃
17、 自力発電所  45坪      〃

鵜来島の砲台兵舎跡 沖の島電探基地貯水池跡
鵜来島の砲台兵舎跡 沖の島電探基地貯水池跡

沖の島の疎開
昭和20年になると、高知市をはじめ県内各地に米軍機による爆撃、銃撃が日増しに激しくなり、沖の島、鵜来島には海軍の砲台や電探基地がある為、住民の生命の危険もあり、県・宿毛警察署の指導によって橋上村への強制疎開命令がでた。当時村議会においても疎開反対者もあり、意を決し兼ねていたが命令が出たので、一部警備隊員を除く全島民が疎開することになった。
その経緯について、沖の島村役場が「町村制第113条第3項」により昭和20年県へ提出した事務報告書によると、
「戦局の危急を告げる決戦下、町村事務は愈々複雑多岐にして、国土防衛は基より食糧増産確保に、或は国民貯蓄の完遂に諸物資の配給統制に労務の遂行にと国を挙げて皇国護持に挺身しつつある秋、突然宿毛警察は上司の命令なる旨を以て本村警備隊員を除く、一般村民の転移を勧告し来れり、転移先を橋上村に指定し、8月12日より同月14日に至る3日間を以て予定総人員の転移を完了したるも、8月15日にポツダム宣言受諾により、大東亜戦の機能を茲に完了停止するに至れり、越えて同月22日より同26日に亘る5日間に転移総人員の復村を得たるも、此等に要した損益金は海陸輸送の費用を合して壱万八千貳百円を費やせり。
転移先に於ては医料施設不備なるため貳名の小児を死亡せしは遺憾の次第なり。
加うるに本件転移復村に於ける期間、警防団長以下全員、各部落会長、各区長等の海陸輸送に、陸路人員の歩行引率に、家財荷物の送達にと献身努力の賜ものにして、其労苦は永く後世に伝わる記録なり。」
なお海上輸送は機帆船(貨物船)を利用し、荷物と人間を一諸に積み込み、飛行機や潜水艦の攻撃を恐れて、夜陰を利用して輸送にあたり、陸上の場合も月の光をたよりに橋上まで徒歩で行った。身のまわりの荷物を持って老人や子供が20粁余りの道のりを歩くのは大変であったと思う。宿泊先も野地(橋上)、坂本、楠山へそれぞれ分宿し、民家に宿泊できない者は橋上の各学校に分宿している。鵜来島の場合は途中橋上第一小学校(現在の橋上小学校)で一泊し、全員が坂本の民家に分宿している。
たまたま疎開の期間が10日間位で終了したのは不幸中の幸いであったが、老人達は住みなれた故郷を離れ、身のまわりの品だけを持っての疎開であり、先祖の墓のある所で死にたいと云って疎開をいやがった人も多かったし、鵜来島では、どうしてもいやだといって2人の老人が残った程であった。

沖の島砲台跡より鵜来島を望む 沖の島村警防団旗
沖の島砲台跡より鵜来島を望む 沖の島村警防団旗

国民義勇隊
昭和20年に入り、本土空襲が激化、本土決戦準備を進めるうえで、全国民の戦闘態勢を整える必要に迫られ、3月23日の閣議で国民義勇隊の組織に関する法案を付議決定し、翌24日情報局はこれを発表した。
その業務内容は、防空及び防衛、空襲被害の復旧、都市及び工場の疎開、重要物資の輸送、食糧増産等の工事又は作業、陣地構築、兵器、弾薬、食糧の補給輸送など軍の作戦行動の支援、警防活動の補助等である。
国民義勇隊は職域、学校又は一定の地域ごとに組織し、老幼者、病弱者、妊産婦等の他家庭の柱となる女性を除き、国民学校初等科修了以上65才以下の男子、女子は45才以下を参加させるというものであった。
4月2日国民義勇隊の機構の大綱が決定し、大政翼賛会、翼賛壮年団も解散し国民義勇隊に参加することになった。そして一億皆兵、総力を結集し、状勢が急迫し戦場となった地域の義勇隊は軍の指揮下に入り、防衛、戦闘に参加する戦闘隊に転移する。この発動は、管区司令官、鎮守府司令長官、警備府司令長官の命令によることになっている。
この案の成立によって男子は15才から65才迄、女子は17才から45才迄の者で義勇隊を組織しておき、戦局の推移によって兵役制を適用することになったのである。
事実上の国氏皆兵であり、大東亜戦争もいよいよ決戦段階に突入したような感があった。
こうして内務省は義勇隊の編成を進め、5月末組織完了を目指した。そうして義勇隊は、敵が四国に上陸した時、小銃等の武器はなくても、竹槍、鎌等を持って戦う気概を養う為、海岸や河原において銃剣術と同じような竹槍訓練を行なった。宿毛町においては押ノ川出身の押川光俊中尉を隊長とし、軍隊経験者10名が指導者となり、100名位の男子が橋上小学校で合宿して竹槍訓練を受けていた。三八式歩兵銃は少しはあったがほとんど竹槍で、食糧はニノ宮地区の奉仕があり、終戦迄訓練が続いた。(宇須々木 松岡長吉氏談)

戦時下の国民生活
戦況が深刻化すると共に、政治の重点は軍需生産と食糧増産に置かれた。青壮年は学徒動員を含めて戦線に立つため応召し、そうでない者は軍需産業に徴用された。昭和15年4月政府は「米穀強制出荷命令」を発動し、農家は種子と自家消費の保有米以外は供出しなければならなくなった。
消費の抑制が強化されて、米をはじめ生活必需物資はもっぱら配給制となり、成人1日の主食配給量は、はじめ二合三勺であったが、のちには一合七勺まで減らされた。政府は昭和18年5月21日には戦時食糧自給対策、6月には戦時衣料生活簡素化実施要綱を発表し、休閑地を食糧増産に動買する方針を定めた。こうして公、私有地を問わず空閑地はすべて食糧農作物の耕作に利用されることになり、街路の両側、堤防、川原はいうまでもなく開墾し、限られた配給食糧の不足で空腹になやむ人々は甘藷や南瓜かぼちゃ畑とし、野草も食糧として空腹をしのいだ。その他米ぬかや大豆をいって食べたりもした。さとうのような甘味料は食生活から姿をけしてしまい、イモの飴をたいて食べていた。
「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」をあいことばに、服装も簡素化され、女子はモンペに防空頭巾を常に携行、男子は国民服に国民帽という服装に統一された。塩もたばこ(1日5本)もマッチも配給制が実施されたので、イタドリの葉やイチゴの葉トウキビのひげを乾かしたりしてたばこの代用品としたり、マッチも不足したので火打石やレンズを使用した。
空襲に備えて、庭先や山に防空ごうを掘って退避の場所を作ったり、窓ガラスは爆風によるガラスの飛散を避けるため紙テープをはったり、夜は電燈に暗幕をかぶせて燈火管制を行なった。
その他家庭にある金属類など戦う物資の供出も行なわれ、中でも松根油は航空機燃料として使用されるため、原料である松脂の供出が各市町村に割りあてられ、農村では松林を農村油田と名付け、これの採集に老幼婦女子まで協力した。このように戦時中の人々の生活は物資統制強化、言論報道の抑圧、そして空襲におびえ、飢えをしのんでの苦しい生活が続いたのである。

衣料切符
衣料切符

空襲の記録
昭和20年頃より、宿毛もたびたび空襲を受けた。沖の島は潜水艦による銃撃を受けたり、飛行機による銃撃で沖の島沖で輸送途中の多数の兵隊が死傷したり漁船員に死傷者がでたりした。
これらの詳報は新聞報道が軍部から禁止されており、終戦当時軍事関係文書はすべて焼却を命ぜられたりして明らかではないが、そのころ警防団や在郷軍人の仕事をしていた小森の佐田安一氏(終戦当時34才)の話しによると、「最初宿毛に爆弾がおとされたのは、昭和20年の4月頃だと思うが、米軍の飛行機2機が東の方から侵入して来て現宿毛自動車学校のかみ(東)の水田に4発おとした。その中で、はぜの木(地名)の近くに落ちた爆弾で、女の人(50過ぎの人)が即死、牛が破片で2匹血みどろになった。家も半壊したのが3軒あった。その頃から毎日のように上空を米軍機が飛んで来るので仕事が手につかなかった。
田の仕事の時も、牛をつなぐ「くい」を持って行き、飛行機が来るとあわてて石垣に「くい」を打ち牛をつなぎ、牛の上にわらや草をかぶせて見えないようにしてかくれた。草をかる事もできないし、牛は山の中につないで林の中の草をたべさせたりした。昼間は婦女子は山の防空ごうへひなんして、ごはん時に帰るというような日が続いた。
「はぜの木」の下の田の中へ不発弾が落ちた時、掘り出しの動員も受けたが大きな池ができた程で、二百五十貫(一屯)爆弾だという話だった。この日、通称ヨサク池(松田川の下流)にも爆弾が落ち、ものすごい水しぶきがあがりたくさん魚が浮いた事もおぼえている。
その他金比羅山、ニノ宮の高石にも焼夷弾がたくさんおち、山火事になったが、ちょうどこの日は雨が降ったので大事にはならなかった。また片島でも飛行機の銃げきがあり入港していた軍艦の乗組員や造船所で死亡者が多数でて、大島で火葬にした。
新田や現在の片島中学校近くの堤防にも爆弾がおちた。爆撃はしなくても毎日のように宿毛の上空に米軍機が飛来して、ほんとうにこわい毎日だった」と話してくれた。
九州や西日本空襲の際の通路となっていたのではないかとも付言した。
高知県史(近代編)記載の「空襲の記録」より宿毛市関係の空襲被害を参考に掲げてみる。
    昭和20年空襲被害調(宿毛附近)
月 日 場  所 投 下 弾 死傷者 被 害 物 件 来 襲 機
3、18 幡多郡清水町
伊豆田村
宿毛湾
大方町
安芸郡室戸町
爆 弾
焼夷弾
銃 撃
14
46
50
死者
重傷
軽傷





22
建物全壊
建物半壊
船 舶
山 林 
 1
40
 5
40町歩
B29
グラマン

24
3、29 沖の島 銃 撃 死者
重傷
軽傷


船 舶  2 潜水艦
6、18 沖の島 爆 弾
銃 撃

18
            P51 14
7、 2 宿毛町 焼夷弾 130     山 林  3反 B29

高知県総計   323回
死 者  647建物全焼12,115
重 傷  274〃 半焼   218
軽 〃  781〃 全壊   221
行方不明   43〃 半壊   642
 計1,745 計13,196
  船  舶    58
  山  林    43町6反
  特に土佐清水市(現)は18回以上の空襲を受けている。

終 戦
昭和20年7月26日米英ソ及び中華民国はポツダム宣言を発表し、日本の無条件降伏を要求、8月6日広島に原子爆弾が投下され、9日には長崎にも原子爆弾が投下され、日本国民を恐怖の底に陥れた。その前日不可侵条約を一方的に破ったソ連は対日宣戦を布告、その軍隊は満洲国境を越えて進撃を開始した。その間政府は秘密裡に和平工作を試みたが成功せず、8月15日ついに終戦の詔勅が発せられ、無条件降伏をした。
こうして、日清戦争以後50年にわたる軍国主義の道に終止符か打たれたのである。
国民に与えた敗戦の精神的、物質的打撃は想像に絶するものがあり、食糧や衣料品の不足、引揚者や戦没遺家族の援護問題、戦災復興など、インフレの昂進の中で戦後復興へと国民の努力が続けられたのである。

鵜来島砲台跡(弾薬庫) 封印された10円紙幣
鵜来島砲台跡(弾薬庫) 封印された10円紙幣