宿毛市史【近代、現代編-交通土木-陸上交通発達の経過】

国道56号線

郷土の先覚者林有造は、明治20年片島と宿毛を堤防で連絡し道をつけると共に、有岡まで車馬の通る道をつくることを計画し市山峠を掘り下げた。
その道は明治23年6月に県道となり、改修され幅員も3メートル内外となった。しかしその頃はまだ松田川には車馬の通れる橋はなかったが、明治33年幡多郡が、各町村と中村を結ぶ郡道の一部として、和田のはぜの木より荒瀬山北ろくを通り坂ノ下に至る線の計画をたてた時、宿毛町がこれに反対し、和田から松田川を渡り旧町役場(本町)まで延長し、それより新町を経て、坂ノ下に達する町道を郡道に編入されんことを町議会の決議をもって要請した。そこで最初の計画は変更となり、宿毛町の要望がいれられることとなった。
明治42、3年中村、宿毛線の県道改修が行われた。その際、松田川の渡し場より、約200メートル下流に橋がつけられ、これに伴って、和田ノ端より橋に至る取付道路ができた。
明治45年1月23日の幡多郡会通常議会に於て、県に対し中筋低湿地帯の道路の嵩上げ陳情がなされて大正4、5年頃荒川付近がかさあげされた。
その後大正9年の大洪水により道路が寸断され、松田川橋等が流された。そこで道路補修が行われると同時に、大正11年2月15日木橋土橋として松田川橋が付替えられた。その後昭和年代に入っても11年5月から12年2月までに補修程度の工事が行われてきたが、14年より16年3月までには市山峠の1メートル掘り下げが行なわれている。
戦後鉄道が22年影野、26年窪川と西へ西へと伸ぴてくるにつれ、急激に車両の通行が多くなり道路の改善をせまられるようになった。
大正11年に架設された松田川橋はその後の洪水などに持ちこたえ、宿毛、中村間の動脈として重要な役割を果していたが、老朽化しその上幅員が狭く危険な状態となったので、昭和25年より現在位置に付替られ、26年3月完成した。取付道路も25年より和田側300メートルが新設され宿毛側150メートルの付替と旧道整備がなされた。またこの年から窪川、宇和島間の改修が始まり、この計画により25、6年沖須賀、26、7年寺尾、26年から29年に長尾と順次道路が拡張され、昭和28年に中村宿毛線が2級国道となり39年には舗装も始まって近代的な道路と変っていった。特に昭和37年高知松山線は1級国道56号線となり更に昭和40年3月に一般国道56号線に昇格してから、急ピッチに工事が進み、力ーブも少なくなって全線2車線となり、又全線舗装されて中村、宿毛間の交通はスムースに行われるようになり、自動車での所要時間も35分ないし40分程度に短縮された。
一方、宿毛から愛媛県に至る交通は、本城山より西に伸びる海抜300メートル程の山系がびょうぷのように立ちふさがり、又宿毛からニノ宮、高石、野地と通る道も、松田川や篠川に阻害されて、車馬の通行を昭和4年に至るまで拒み続けた。
昭和4年宿毛トンネルができるまでは、大深浦より松尾坂を越え、愛媛県一本松村小山に通ずる道が、主要な街道であった。松尾坂を通る道は昔は伊予と土佐を結ぶ重要な街道で、番所も設けられ遍路はここ以外は通行することができなかった。この街道には一里塚も設けられており、街道のところどころに松並木などがあって、昭和16年頃まで松尾坂や、錦、貝塚間などには、直径1メートル程の松が並んでいた。
宿毛から松尾坂に至る道は、宿毛本町の現宿毛警察署の所より田の中を横ぎり貝塚に至り、それより願成寺山(現テレビ塔のある山)の山裾を通って錦、小深浦、大深浦と山越えをしていくのである。それより松尾坂にかかるのであるが、海抜280メートル程もあってなかなかの難所であった。
峠より見おろす宿毛湾の景色はすばらしいので、旅人はしばらく足を留めて、この絶景に見とれたことであろうが、その旅人を相手に茶屋も設けられていた。
しかし、宿毛トンネルが開通し、野地橋、篠川橋と架設され整備されていくにつれ、廃道となり、現在では雑草がおい繁り通行不能になっている。
愛媛県への交通は明治40年愛媛県より土、予を結ぶ重要道路として建設の交渉があり、宿毛町は県に対し松尾線の改修を建議したこともあったが、難工事の上に船の利用が多かったため容易に進まず、やっと与市明の谷奥の赤松山に宿毛トンネルが、昭和4年の5月にできて、前途に光明を与えた。
それまで山北や小川、野地の人たちは、徒歩や馬を利用して、赤松坂越えをして宿毛へ出ていたのである。
宿毛トンネルが開通して喜んだものの、篠川に橋がかからないので、宿毛トンネルの北側の斜面をすべりおりるようにして、篠川にかかっている仮橋を渡りやっと人や自転車駄馬の通行を許すだけであった。車がはじめて通るようになったのは、野地橋ができてからである。野地橋は10年3月に鉄筋コンクリート橋として架設され、篠川橋も架設された。
その後愛媛県側の道も整備されて、ここに初めて愛媛県との動脈が本格的に接続し、車馬の交通も支障のないようになった。
終戦後車の交通がひんぱんになるにつれ、道路が狭隘で不便さが増したので、昭和40年より与市明から拡張工事が始まり、46年11月新宿毛トンネル(延長256.7メートル、幅8メートル)ができた。またその延長として野地部落まで陸橋でつながったので、今まで与市明から野地橋に至る曲りくねった坂道より解放されて、平らな完全舗装の快適な道となり、急激に交通量が増え、愛媛県との交通は完全に海より陸に移った。

宿毛和田間の旧県道 旧松田川橋 宿毛大橋 明治42年の松尾坂(尾崎昭夫氏蔵)
宿毛和田間の旧県道 旧松田川橋 宿毛大橋 明治42年の松尾坂
(尾崎昭夫氏蔵)
篠川橋 整備された56号線 新宿毛トンネル付近 旧宿毛トンネル 新宿毛トンネル
篠川橋 整備された56号線
新宿毛トンネル付近
旧宿毛トンネル 新宿毛トンネル