宿毛市史【近代、現代編-交通土木-陸上交通発達の経過】

宿毛津島線

片岡柳馬記念碑
片岡柳馬記念碑
橋上と宿毛の間の交通は、昔は和田を通り中角を経て橋上へ至る線が主なもので、神有より奥は馬も通れない交通不便な所であった。
初め車馬の通れる道として計画されたのは郡会に於て道路第1期線として計画された、平田村戸内より山奈村芳奈を経由して橋上に至る道路で、明治34年5月には戸内より芳奈に至る二十四町五十二間五歩の道路の改修が郡会に提案され、県に補助申請がなされたが明治35年これが取消しとなった。しかし同年再び提案され、工事がなされることになって基礎づくりができ、その間日露戦争により繰延べなどがあったがつぎつぎに延長工事がなされていった。 ついで宿毛、奥奈路問が郡道第2期線として計画され、明治43年4月から大正元年9月迄に実地調査をし、大正5年及ぴ6年に神有、出井県境の間を追加して実地調査が行なわれた。
宿毛、奥奈路間の計画がなされた際、その路線にあたる河戸堰上流の川平が急斜面のため、崩壊の恐れがあるといって、路線変更を要求するものもあって紛糾したが、片岡柳馬の努力により変更することなく施工された。ニノ宮高石地区のこの路線に対する恩恵は大きくその為記念碑を建てて、この功績をたたえている。
この線も難工事ではあり、大正9年には洪水による被害もあって計画の延長があったが大正12年3月愛媛県境に至る全線の開通を見ることができた。
その後道路改修工事としては昭和11、12年度に改良されたが自動車の激増で道路改良の必要性がまし、昭和44年より部分的な改良工事が行われ、中角部落付近の路線変更、橋上部落のバイパス、下坂本の幅員拡張、楠山の尾返付近等々と順次改良が行われている。