宿毛市史【近代、現代編-交通土木-陸上交通発達の経過】

その他の主要路線

片島港線
明治20年林有造が宿毛片島間に堤を造り、堤上を道として片島に港を開いてから、片島には人口が急激に増え、船の出入も年と共に盛となったので、明治35年堤の内側に道路が新設され明治37、8年頃、鳥越の堀抜きも堀り下げられて県道となり車馬の交通が便利となると共に、明治41年路面の拡張と道路の延長が、桟橋まで行なわれ県道宿毛片島港線となった。
昭和16年片島が連合艦隊基地として重要性をましたのに伴って、コンクリート補装が完成し、高知県で当時最もすぐれた道路となった。

土佐清水宿毛線
郡道第2期線下ノ加江線として平田、下ノ加江間の道路改修が計画されたが、三原から下ノ加江に至る線には、下ノ加江の推す成山を通る線と、三原の推す下ノ加江川本流沿いの線との2案があり紛糾したが三原の推す芳井を通る下ノ加江川本流沿いときまり、大正4年度から工事が開始となり、昭和17年全線改修が完了した。
その間貝ヶ森橋が昭和4年(1929)4月に完成し、三原村の林産物が片島港へ車馬で積出されることとなった。昭和50年度には黒川部落から、森に至るバイパスエ事が始まり継続中である。

下切小筑紫線
三原村の山林資源を小筑紫港に運ぶことを主目標として、小筑紫村が大正12年測量をし、13年より着手し昭和2年4月中旬竣工し、翌3年には県道に移管された。
しかし三原村においては連絡道が意のままにならず小筑紫は村境まで完成したものの用をなすことはなかった。そこで三原村は大正14年に起工し、4か年継続事業として施行することを決めたが、この計画も実現されず、昭和8年に再度計画されたが補助を得ることが出来ずまた立ち消えとなった。しんぼうしきれなくなった地元は、源谷の橋は自分たちの手でかけるので是非本年度工事に着手してくれと陳情したが、県費補助が得られず、その後営林署に働きかけたりしているうちに、太平洋戦争が激しくなり中断したが、粘い強く営林署に陳情し、やっと昭和23年小筑紫村へ通ずることができ、三原村の林産物が小筑紫港へ積み出されるようになった。

農道・林道
各部落に通ずる里道、農道などは大体大正年代から昭和初期にかけて一応完成を見たが、農村の機械化に伴って昭和30年頃より急激に道路拡張などが行われ、耕耘機や自動車の入る道が網の目のようにつけられている。(旧宿毛町の里道の整備は明治44年から大正4年の間に整備された)
又林道も開発され奥藤林道、京法林道、山北林道、久礼ノ川林道などのような大規模な林道もつけられ、奥地にまでトラックが入り、林産物運搬をするのに大変便利となっている。