宿毛市史【近代、現代編-交通土木-陸上交通発達の経過】

自動車

パスの発達
有岡の橋田茂太郎の話によると、自動車は、大正3年有岡を通過したというから、この頃から中村宿毛間に自動車が動いていたものと思われる。
野村自動車中村営業所長をしていた宅間嗣能氏の話によると、中村、宿毛間に初めて自動車を走らした人は、たばこ元売さばきをしていた小野氏で、その後(年代不詳)野口商会(浜田利三郎経営)と幡多自動車(代表者間崎善吉)が、この路線に乗合自動車を走らせた。
野村組自動車も大正8年6月中村下田間を走らせたのに続き、宿毛中村間にも運行させた。そこで将来を見越して小野は廃業し、野口自動車、幡多自動車、野村組自動車が一時競合した。
古老に聞くと「大正10年には前年の洪水で橋が流されていたので、松田川東岸で、幡多自動車、野口自動車、野村組自動車がお客の争奪を行なった。」という。
その後数年競争が続いたが、野口自動車が昭和2年8月頃、5、6台の車と共に8万円で野村組に買収され、昭和3年11月25日幡多自動車も野村組に買収されたので、中村宿毛間は、野村組自動車の専有路線となった。
大正時代の車は6人乗のフォード社の車で幌で覆ってあり荷物も車の横や上にまで積んだという。ナッシュという車も使われたが故障が多く宿毛、中村間を2時間もかかったと云う。中村宿毛間にバスが走りだしたのは昭和3年頃である。
昭和6年には片島中村線、宿毛小才角線が運行しているが、片島中村間は1円30銭、宿毛小才角間は2円30銭であった。
宿毛より南方面行きは、野口商会が大正14年9月より、宿毛、二ツ石間を運行しはじめたのが最初である。
野村組自動車部は昭和3年野村自動車株式会杜となり昭和19年、高知県交通株式会杜となる。22年影野、26年窪川と汽車が西に向って延長してくるにつれて、船を利用する人よリバス利用者が多くなり、パスも大型化し回数も多くなった。
昭和26年には、片島から高知行きのバスもでき、その外、中村経由影野行3回、中村行5回、佐賀、上川口行各1回となっており、片島から高知まで8時間、影野まで4時間半、中村まで1時間半を要した。
なお、南方面行は、古満目行3回、小才角行2回、福良経由清水行2回となっている。
宇和島方面は昭和10年3月篠川橋野地橋が架設され道路も整備されたので間もなく三共自動車株式会社が、宿毛に乗入れた。そこで、愛媛県との交通が便利となり、阪神方面へ行くのには汽車に乗った時トンネルがないことなどからこの自動車を利用することが多かった。昭和10年の宿毛から宇和島方面行の回数は8回であった。この線は昭和14年4月8日に宇和島自動車が買収し現在も宇和島バスが運行している。
県交通の利用者も佐賀、中村と鉄道が伸びてくるにつれて少なくなったが足摺宇和海国立公園ができて観光客が増え、現在も堅実に運行されている。宇和島自動車は、昭和23年3月10日に楠山まで乗入れ、27年7月16日には、篠山口、28年10月10日には、犬除までと線路を延長し、現在も運行している。
その他の支線は昭和30年頃から県交通は、市内の県道になった所にそれぞれ乗入れ、へき地の部落の交通の便を図ったが、自家用車が30年代後半から激増したので、採算がとれなくなり、芳奈線、天神線、三原線が廃止になった。
又県交通は、会社が経営の危機に陥ったこともあって、企業整備を行い昭和44年2月11日より中村線から順次ワンマンバスに切り替えられ、南線も宿毛弘見間が49年4月1日からワンマンバスになった。

野村自動車停留所 旧フォード自動車 県交通新田営業所
野村自動車停留所 旧フォード自動車 県交通新田営業所

宿毛を中心としたバスの回数(51年10月1日現在)
発  駅 行き先 回 数
宿  毛 中 村 33回
  〃 片 島 37回
  〃
(宿毛出張所発を含)
栄 喜  2回
  〃
  〃
柏 島  6〃
  〃 西 泊  2〃
  〃 安満地  2〃
発  駅 行き先 回 数
宿  毛 海岸廻り
清 水
5回
  〃 石原廻り
清 水
8〃
  〃 弘 見 24〃
  〃
(宿毛出張所発を含)
藻 津  2〃
  〃 咸陽島  3〃
  〃 宇和島 18〃
発  駅 行き先 回 数
宿  毛 城 辺 1回
  〃 神 有 2〃
  〃      上坂本 1〃
  〃 楠 山  1〃
  〃 犬 除  2〃

宿毛市自動車増加状況
年  次自 動 車 台 数
昭和41 2,314
〃 43 3,461
〃 45 5,020
〃 47 7,215

自動車交通量(12時間交通量)
  観測地点

年度
国 道 56 号 線

宿    毛
県 道 片 島 線

宿毛市新田
県道宿毛津島線

宿毛市中角
昭和40 1,977 2,037 268
〃 43 3,423 3,516 620
〃 46 5,879 4,850 623

高知県内自動車保有数の推移
年  次自 動 車 保 有 数
昭和21   1,255
〃 23   2,245
〃 25   3,455
〃 27   5,884
〃 29  11,713
〃 31  15,665
〃 33  19,487
年  次自 動 車 保 有 数
昭和35  25,272
〃 37  36,191
〃 39  52,582
〃 41  73,528
〃 43 110,789
〃 45 157,214
〃 47 202,943

ハイヤー
宿毛でのハイヤー業は、金沢清光氏が昭和5年にはじめたのが最初で、6年には押川光俊、宮尾林一氏がはじめている。昭和12年企業合同がなされ宿毛貸自動車有限会社となったが、戦後また宿毛ハイヤーとして発足し、利用者の増加に伴い、現在岡本ハイヤー、平田ハイヤー、丸三観光ハイヤー、宿毛観光タクシー、和田タクシーが営業をしている。

自家用自助車
自家営業用自動車として最初に使われたのは、大正9、10年頃だといわれ、大正10年長田利一郎氏が荷物運搬を営業として始めたのがわかっている。長田氏は途中兵役につき空白があったが、昭和5年頃長田氏と大島漁業組合が協同で魚や氷の運搬に利用した。
鮮魚や氷は時間短縮の必要があったことから、鮮魚商などにだんだん購入するものができ、昭和8年頃にはダットサンの小型トラックなども入るようになり少しずつ増えていった。しかし昭和26年頃片島に概算で、自動三輪車4台、トラック2台、ダットサン4台しかなかったというが、やがて木材運搬などに自動三輪車が急激に増え、奥地まで自動三輪車が入るようになり荷馬車を圧追していった。
昭和25年の朝鮮動乱を契機として、わが国も本格的に自動車生産に取リ組み、国民の所得が増大したことによリ自動車業界も活況を呈し乗用車としては39年日産のブルーバード、40年にトヨタのコロナが月産一万台となリ、41年になると日産がサニーを、トヨタがカローラをと低価格の大衆車を発売したことから爆発的に自動車が増え続けている。
トラックの方も増え続け、現在は商店は勿論大抵の農家は各戸に1台のトラックを持つようになった。