宿毛市史【近代、現代編-農業-土地の所有状況】

土地の所有状況

明治になって階級制度が廃止され、土地所有関係も変ったが、幕末までの土佐の土地には本田と新田があった。本田とは天正地検によって公認された248、300石余の土地のことを言い、山内氏の入国後開発されたものが新田である。
本田には藩に年貢を納める御蔵入地と、給地と言って家老以下の諸士への給付地、または大庄屋はじめ地方役人の家禄にあてられた土地と拝領地といって寺院や神杜等に給された土地があった。本田は藩主よりの預かりものとして、永代売買の禁令があったが、新田は自由に売買できた。
維新後農地所有に関して中央政府は、明治元年12月の布告で「拝領地ならびに社寺、除地の外、村村の地面は素よりすべて百姓の所有の地たり。」という一般原則を定め、明治5年2月15日土地永代売買の禁を解き、同年2月24日には大蔵省から土地の売買ならぴに譲渡にあたって、その土地の持主としての確証として地券を発行する布令が出された。
本田を作っていたものはそのままその者の所有となり、新田は個人で開墾してそのまま耕作している者は、引き続き個人所有となった。また新田で農民に耕作させていたものは、加地子米をとった者の所有となった。
宿毛付近は大部分藩主より伊賀家にくだされた給地で、伊賀家文書によると初代可氏公の時代には六百町歩であったが、3代節氏公の時代に宿毛本村、錦、小深浦、大深浦、椛、宇須々木、大島、坂ノ下、和田、押ノ川、寺山、平田、呼崎、小尽、二宮、野地、小川、窪川(現在の山北)に新田が出来て、新田の含計が百五十四町一反となった(『三清文公一代記』)ことが記録されており、新田が多かったことが分かるけれど、伊賀家の開拓した新田か、農民達の開拓した新田かははっきリしない。
伊賀家等の給地は維新後直ちに没収され、明治2年12月より現米支給制に改められたので、全く土地と絶縁されることとなったが、新田については所有が認められていたはずであるけれど、この所有関係はつまびらかでない。とりあげられた給地はそのまま耕作していた農民の所有となった。
前記のように新田はそのまま個人の所有となったので、侍や郷士などの中には、新田を開いたものもいると思われるし、庄屋や農民の中でも富裕な者は個入で開拓したり、又新田を買い集めたりした者もあったと思われるから、農地の所有面積に差が出来た。そこで郷士や庄屋等は地主となり、力のない農民たちは小作となった。この関係は農村の不況等の度に質地取り等でますます大きくなり、農村の封建的社会の形成の原因となった。この封建的な社会は、国の地主擁護政策と相まって、昭和21年の農地改革まで続いた。
本田百姓は公平を期するため割地制(くじ地制)が行なわれていた。この割地制は、田の肥せき、交通の便や、災害等を考慮してそれぞれ組み合せ、農民会議の上年限を決めて抽選し、各自の耕地としたのであるが、この制度は、明治5年まで続けられた。年期は4年又は6年と言われ、5年若しくは10年で一期とすると言われていて一定していなかった。山田地区辺りでは古老の話によると、八反宛に分けられていたそうである。又宇須タ木部落の古文書によると、割り地は明治3年当時耕作していたものがそのままその者の所有とするとあるので、その当時の所有となった状況が分かるのである。
地租改正で金納制となり、税負担が軽くなると農民は喜んだが、期待に反し相変らずの重税で苦しんでいた。これに追い打ちをかけるように訪れたのが、西南戦争後のインフレ抑止策としてとられた松方緊縮財政であった。これは物価を下落させたが、このため地租金は高率となり、その上地方税等の負担が多くなったので、税金滞納者が続出し、土地の強制収容処分を受けたり、税金を払うための借金の抵当流れとなったりして、土地の移動があり、地主と小作の関係が、いよいよはっきりと出てきた。