宿毛市史【近代、現代編-農業-明治時代の開拓】

林新田の開拓

林新田 (さぎ州新田)の開拓
明治初期の宿毛の農民たちは、税金を払うのに困った者が多かった。何とかこの窮状を救わんとし、宿毛発展の方策を明治13年頃有志相謀り、土佐挙兵計画の主謀者の1人として岩手の獄につながれていた林有造に手紙で相談した。林有造は相談を受けていろいろと考え次のような方策を立てた。
 さぎ州に新田五十町歩を造り、片島と連絡させる。これによって50戸が耕作でき、200人が宿毛で物品を購入することになる。
 片島に汽船を航海させ、それによって宿毛に物資を集め、運輸の便を良くする。
 東に道路を造り、市山の坂を掘り下げ、有岡駅まで車を通行させ、交通の便をよくする。
と言うものであった。そこで直ちに宿毛の有志にこの方策を通知すると共に、仮出獄を許されれば、2年半は宿毛に居住することになるから、その間宿毛のために努力すると返事を書いた。
ここに言うさぎ州と言うのは、宿毛と片島の中間、野中兼山構築の総曲輪くるわよリ沖の、現在新田と呼ばれている所である。当時この辺は、前に大島、片島、池島、その他小さい島々が沖からの風波を防ぎ、波の静かな上に、松田川や錦、貝塚等の小河川より流出する土砂がたい積し、遠浅をなしていた所である。その事は沖新田を幕末からお台場と言い、総曲輪の沖に砲台がすえられていた事でもわかる。この波静かな遠浅を利用し、堤を造って海水を入らないようにして干拓する方法を考えると共に、片島へ港を造ることを考えたのである。このように新田を造る事は宿毛としても、福良新田や小深浦新田のように、かなり古くから行われていたようであり、有造はこの事を元にして考えたものと思われる。

浜田氏より岩手監獄の林有造へ出した書状
浜田氏より岩手監獄の林有造へ出した書状

明治17年に仮出獄を許された有造は、直ちに宿毛に帰り、坂本林爾、菊地清三郎、杉本治三郎、岡添寅蔵、平井友蔵等を集めて、新田築造等3つの方策について説明した。
新田築造については資金が必要であるから、愛媛県の八幡浜や川ノ石の財産家に、地元の宿毛から3千円の寄付をして依頼しようとの決定を行った。3千円の内訳は、有造が伊賀陽太郎、岩村通俊、岩村高俊、竹内綱、小野義真、大江卓、小野修一郎に相談して1500円を作り、後の1500円は和田、坂ノ下、宿毛、錦、小深浦、大深浦、大島等で作ると言うものであった。
そこでこれらの部落で協議を行う事になったが、有造が謹慎の身であるので、多数の人を集めるのは都合が悪かったが、警部井上作次郎に事情を述べ、許しを得る事ができた。
そこで部落の人々を召集し、その計画を話した所が協力するとの同意を得た。しかし明治18年3月、県令田辺良顕が宿毛に来て愛媛県人に築造させる事に反対した。
当時は全国的に農業恐慌と言われる時代で重税のため滞納者が多くできて、政府に競売又は没収された土地が多く、その上高利貸や商人より借金をした抵当流れの土地が多くあった。県令が言う事には、この辺りでは幡多郡川崎村(現在の西土佐村)等では愛媛県人に移った土地も多く、その上宿毛の土地が愛媛県人の手に移るのは面白くないという事であった。
しかし新田開発は宿毛発展のため是非必要であると言う考えを述べたところ、その意図もわからん事はないので、なお考えた上で返答する、と言う事であったが、翌日有造を尋ね、この計画は総計いくらになるかと尋ねた。そこで1万5千円の費用が入用だと言ったところ、3千円の寄付の上になお、宿毛、東京等で7千円を募集することは出来ないか、計1万円出来たら3分ノ1の5千円は勧業金を借りてやると言う事になった。
そこで有志相談の上1万円を募集し、5千円の勧業金を借る事とした。
有造は明治18年8月放免となったから、明治19年1月上京し、新田築造の許可を得た。
そこで直ちに近郷近在の人を集め、築堤の工事に取りかかった。築堤は宿毛総曲輪くるわ南端の松田川川口(現沖新田)より片島東端に至る約1・5キロメートルと、現在片島中学校の所より小深浦堤に至る2か所であった。
当時の石工は、岡山県児島郡宮内村の藤原梅蔵であった。この人の技術は非常に秀れ、後年有造が完成した小樽築港工事も、この人の力に負う所が大であったと言われる。
築堤の間は有造はもちろん坂本林爾たち発起人に名を連ねた5名は、宿毛のためだからと言う事で、腰弁当、無報酬で監督の任に当たり、一致協力して工事を進めたので、工事は順調に進み、明治20年4月潮止めとなり工事は完成した。
しかし工事は完成しても、海であった所を田にするので、造成などに労力及び経費を要すると共に、日時がかかリ、その上田を造成しても塩分が無くなるまでは稲を植える事はできないので、しばらくは米の収穫を見ることはできず、利益をあげる事はできなかった。
そこで出資者の中より出資金を返してくれとの意見が多く、当時有造は小樽で築港埋立工事を行なっており、工事は完成していなかったけれども、利益を得る見当がついたので、借金をし出資者に出資金を返して明治22年の初め有造の所有とした。
そこで有造は丘新田と沖新田に開拓小屋を造り開拓者を募った。
最初に新田にやってきたのは、現在の大方町加持の人たち8名であった。有造はこれらの人たちの開拓にあたって内規を作っているがその主なものを抜粋するとつぎの通りである。
 新田ニテ居住スル者ハ、田壱町、畑壱反五畝歩ヲ一戸ノ定則トス。但自分等開墾ハ其限ニ非ス。故二壱戸定則以上耕作シ居ル者ニハ開墾ノ費額ヲ与ヘス。地所ニ依リ年期ヲ与フ、其年期ハ是ノ等級ヨリ上ス者トス
 新田ニ居住セサル者ハ今後田畑共ニ宛付セス……(中略)……
 但新田ニ居住セントスルモノニハ、家屋建築費トシテ、米五石以下貸付、二ヶ年据置キ三ヶ年目ヨリ五ヶ年賦ニテ返納スベシ、其貸附期間利子ヲ附セザルハ一ヶ年利子壱分弐厘トスレパ、七ヶ年後積算五石トナル、家屋ハ五石ヲ負担ノ道理ナレバ、家屋ハ地頭ヨリ借受タルモノトス。
 是迄ノ耕作地ヲ改良セントスル者ハ其費額ヲ負担スベシ。
   (中略)
 大体新田ハ四分六分ノ制ナリ、併シさぎ鷺州新田ハ地位未タ確定セス、併シ壱等、弐等、参等ノ地ハ地位確定セリ、壱等ハ八升五合ヲ四歩トセハ六分ハ、壱斗弐升七合五勺、合計弐斗壱升弐合五勺、壱反歩ニ弐石壱斗弐升五合ナリ。弐等ハ四歩、八升、六歩ハ壱斗弐升、壱反歩弐石ナリ。参等ハ四歩、六升五合、六分ハ九升七合五勺、壱反歩、壱石六斗弐合五勺ナリ。 此参等ハ地位確定セリト認シ可キナリ、四等、五等、六等、七等ハ地位マタ確定セス、之等参升ノ如キハ四歩六歩ヲ合セテ七升五合、坪ハニ合五勺、壱反歩二七斗五升ナリ、カクノ如クニシテハ耕作スルニ価値ナシ、地位確定セスト言ッテ可ナリ、故二改良ヲ加へ参等ノ収穫ヲ得セシメザル可カラズ。故ニ注意ヲ加へ、改良又肥料等ヲ與ヘサルベカラズ
     明治三十九年一月十七日記ス      林有造
この内規でわかるように開拓小屋を造って開拓者を住わし、開拓を始めたが初め一町歩の田と畑壱反五畝を割り当て開拓させていることがわかる。
開墾地は1年目は加地子米は免除となったが、2年目は7等級の加地子米、3年目には等級を定めるようになっている。
加地子米は4分6分制で、4分を林に納入し、6分を小作の取リ分としている。等級は7等に分かれているが、その内訳はつぎのようである。
小作料内訳(反当)
等級 小作料 小作収納量
8斗5升 壱石弐斗7升5合 弐石壱斗弐升5勺
8斗 壱石弐斗 弐石
6斗5升 9斗7升5合 壱石6斗弐升5合
4、5、6、7等地は地位確定せずとあるので小作料はきまってなくて
検見などをして決定していたものと思われる。
有造は施肥を奨励し、土地改良を奨励して資金を貸し与えている。
大正6年の日記によれぱ、明治47年(原文による)に土地開墾が進むにつれて加地子米の等級などに不公平が生じてきたので、改正して等級を5級とし加地子の額を変更している。

改正された小作料
等級 小 作 料 等級 小 作 料 等級 小 作 料
9斗 7斗 年々検見をして決定す
8斗 6斗5升  
入植した人達は、開拓小屋に居を構えると、先づ井戸を掘り、道を作り、割り当てられた中州の河原を、畑としてきりひらき麦や甘藷、野菜等もつくると共に田の開墾にとりかかったのである。海に近い関係で、飲み水には特に不便をしたらしく、沖新田等は、現県交通営業所の近くに井戸があったが、その水は鉄分が多くて、濁った水であり生水は飲料にするわけにはいかず、お茶として飲むより方法がなかった。又洗濯をしても着物が茶色に染まるようなひどいものであった。
田にするところは、海だったところであるから、かきの付着した岩石や、貝殼等が多く、それらを拾っては捨て、又凹凸のあるところは平にしたり、低い所には客土をしたりしなければならなかった。田を開墾する一方で道路を作リ、用水路をひき、丘の方からだんだん沖の方へと開拓を進めていった。
入植して来た人達は、大部分山林をもっていなかったので、薪にも不便をした。そこで薪を得るには近くの部落に出かけ、薪炭山の上木を買ったり、炭焼きのサデを買ったりして、冬の農閑期を利用して、一家総出で1年中の薪を準備しなければならなかった。又肥料は昔は青草や木の若芽などを、牛にふませたり、又積みあげてくさらせたりしたものを使っていたが、新田の人達には適当な採草地がないので、肥料はもっぱら、宿毛の町の下肥をもらってかけるか、牛馬のきゅうひによるより外方法がなかった。牛馬の飼料には主にあしの葉を食わしていた。
当時新田に住み込んだ人達は、家、田畑を売り、希望に燃えてやってきた人達であったが、もともと余り生活は楽でない人達で、分家をした2、3男や郷土に見切りをつけた人達であった。然し、この開拓者として入植するには、田が出来上るまでに日時がかかり、又出来上ったとしても、塩分がなくなるまで、暫くは田植も出来ず、収穫は皆無であった。そこで林からいくらか貸与米などをもらったとしても、充分でなく、副食、衣類、農具、燃料等出費が多かったので、一応の生活資金がなけれぱ到底生活は、なりたっていくものではなかった。
資力のあるものは、日々開拓に打ち込み、ぐんぐん面積を多くしていったが、資金のないものは暇を見つけては、生活費をかせがねぱならず、日傭働きなどをしていたので、開拓に専心できない人達もいたのであった。
又牛馬をつれてきて畜力を利用しての開拓と、人力だけでの開拓では、大へん大きな違いが出て来た。そのため家によってはぎリぎりの生活を強いられ、病人が出たり、災害があったりして生活のリズムが狂うと、とたんに困ってしまう人達もいたのであった。そのため入植を続けて行くことが出来ず、自分の開拓した土地の権利を売り、転職したりする人もあったのである。加持の人達にしても、現在まで住みついている人は1軒もいない状態である。加持の人達の転出は明治23年の大水による堤防決壊のためによるのが直接原因で、田辺寿太郎を残し後は全部転出している。又大正9年の水害も他の耕作者の異動を大きくしている。
家の異動を次に列挙して見ると
  田辺寿太郎 →茨木   茂
  塩田 清馬 →林   敏明
  長尾 雄吉 →谷ロ  良次
  茨木 芳春 →中町   繁
  長尾 栄助 →小野下利男
  橋村 順吉 →山本  広吉
  長尾 福次 →山本  貞吉
新田の人達は林の小作人として入植したのであったが、小作といっても開田された田の小作というのではなくて、海であった所を開拓し、これを田として後に、小作として小作料を支払ったのであり、最初の1年間は、免除されたが、その後は普通の小作人同様に小作料を納めねばならなかった。収穫は初めの頃は場所にもよるが、大体反当、4、5俵程で小作料は10分の4であった。そこで一町歩作っても40俵から50俵の収穫であり、そのうち10分の4の小作料を支払うと、50俵にしても自分の取り分は30俵であり、5人も家族がいると、たべるのがやっとで、台風や、大水の被害をうけたり、うんかや二化めい虫の害をうけたりすると、益々生活は苦しいものとなった。

戦前の林新田
戦前の林新田