宿毛市史【近代、現代編-農業-明治時代の開拓】

池島の開拓

現在の池島
現在の池島
池島は伊賀家の所有していた土地で、無人の山野であった。ここを開墾した人達は愛媛県の大浜村、北灘村、下灘村、下波村等出身の29名の人達であった。これらの入達は無家督者と記されている所を見ると次、3男などであったと思われる。この29名の代表者は、前記大浜村の高内元八で、高内はこれらの人々に頼まれて明治6年方々を見て廻り入植地をさがした所、池島は海にも近く、土地も肥え比較的交通が便利であり、30名近くの人々の暮しが出来るものと思われたので、大島の小野義忠にたより、地主の伊賀家に交渉を依頼したが、伊賀氏理は東京へ寄留して不在だった。しかし広瀬正のりが管理を依頼されていたので、高内、小野共々広瀬宅におもむき、くわしく事情を話したところ、広瀬は引き受けはするが土地売渡しは伊賀家に問い合せて見ねばわからぬということで、日をおいて広瀬を訪ねた。伊賀家は売買となれば入札にして売りさばけということで、入札の結果360円で落札した。土地代金の支払い方法は6か年の割払いとし、その時の約束で360円を30で割り1人前12円とするが1人でも不払いがあった場合は広瀬の小作とする。払い済みの時その権利を渡すということで約定書を交し、村へ帰った。
入植者たちは、明治7年より8年の間に池島に入り、分配の上屋敷を定め、小屋を建て、だんだんと開墾していった。しかし持参した金も少なくその上開墾するばかりで、収入を得ることが出来なかったので、困窮目もあてられぬ程だったと記されている。そこでひもじい腹をこらえて昼夜荒山を開いていた所、元八は老年の病気で大浜へ帰って死亡した。そのうち6年がたち、年末がきたので、一同の者は約束の年賦金を皆済した。そこで権利を渡してくれるものと楽しみにしていた所、広瀬より加治子米を支払えといってきた。然し約束が違うといって、加治子を払わずに放っておいた所、中村裁判所より呼立をうけ、裁判となった。そこで広瀬の申立と初めの約束とが違うので、その時の契約書を高内元八の相続人由蔵が持っているから後日特参するということで、裁判の日延べを乞い帰った。しかし契約書を探したが見つからず、そこで呼立をうけた人達が裁判所にでてそれぞれその間の事情を説明したが、広瀬の申立と違う上証拠がないので裁判に負けた。結果は畑一畝につき米2升、山一反につき米一升の加治子を納め永代小作となるか、ここを立退くしかなくなったが、立退くということは家族をあわせると200名近いものであったから到底できがたいことであった。
そこでこの困難を見かねて、高内由蔵は苦労を重ねて裁判費用をつくり上告し、大阪にて裁判を争ったがまた敗訴となった。然し後に契約書が出て来て、明治13年裁判に勝つことが出来た。