宿毛市史【近代、現代編-農業-農民の生活】

雁ヶ池の耕地整理

雁ヶ池
雁ヶ池
明治時代国の政策と対応して宿毛市全般にどのようなことがなされたか詳かではないが、雁ヶ池の耕地整理が行なわれたことがわかっている。
雁ヶ池は山奈町長尾の国道沿いに拡がる低湿地で、少し雨が降れば、水が溜りやすい上に四万十川の水の逆流がここにも押し寄せてくるため、田畑が冠水し、収穫が半減どころか皆無になる状態であった。この低湿地を、住吉神杜の西のところより、貝礎部落に至る堤で締め切る工事を行なったのは明治44年頃で、その時の功労者上岡時太郎の顕彰碑が堤の付け根の所に建てられている。
明治43年よりこの堤の内側の整理を行なったのが雁ヶ池耕地整理組合で、組合員総数は130名、組合地区内面積は三十三町七反八畝十九歩であり、工事内容は排水の整備が主として行なわれ、完了は大正2年である。
その間起債が行なわれているが、明治44年4月12日の起債認可申請書を見ると、耕地整理法第80条により申請すると言うことが記されてあるので、整理法による起債を元に進められたことが分る。起債は明治45年2月に3700円を10ヶ年賦で、大正2年に300円を10ヶ年賦で借りている。その後大正4年に堤の決壊による破損箇所修繕と水門修繕費として、大正5年に4ヶ年賦で350円を借用している。
整理後の状態はどうなったか詳ではないが、計画予想としては一反の収穫に於て、整理前は上田二石、中田一石、下田四斗、下田桑葉八十貫が整理後は、上田二石四斗、中田二石、下田四斗、下田桑葉百六十貫との予想が立てられ、整理後の年間差引総利益は2964円36銭5厘となっている。この整理組合はいつ解散になったか詳ではないが、大正12年が年賦期限となっているのでこれで解散となったものと思われる。整理後桑、杞柳、稲などが植えられた。