宿毛市史【近代、現代編-農業-農民の生活】

稲作の変遷

牛耕
牛 耕
稲作りは、4月初めころから植付け準備が始まる。まず苗代作りであるが、管理のしやすい田を選んで堆肥や下肥などをいれ、これを充分すきこんだり、踏みこんだりしておき、これをよく耕して土塊をとかし竿の先に丁字型に厚い板をとりつけたえぷりでつきならし苗代の整備を行なった。当時の苗代は田一面にもみを蒔いて苗をつくる平播きであった。平蒔き苗代の方法は、明治40年頃まで行われたが、その頃、二、三化めい虫の防除として捕蛾・採卵の励行と平行して、管理の仕易い、現在も行われている短冊苗代へときりかわっていった。
この籾まきに前後して、村人が総出で農道や水路の補修整備などを行なった。これを田役といったが、田役が終ると、大抵の所が牛や馬で田を耕していった。
田を耕すのは一番すきと二番すきとあり、田の土を天地がえしをして底土を太陽にあて風化を助ける作業を行なった。二番すきをして水を入れその後荒かきをした。そして土の畦寄せを行い、かしきや堆肥、厩肥を入れて放置しておいた。その間これらは腐植していった。田植えの2、3日前には、水漏れを防ぐため畦寄せをした土で畦ぬりを行なった。田植えを行なうには大抵の場合共同で行なった。先づ代掻しろかきを行なうのであるが、2、3頭の牛や馬が一列横隊になっていったりきたりする様子は壮観であった。代掻きで田の土が充分くだかれて糊のようになり、水田も平になると田植えが始まる。
田植えは明治の初めは、早乙女たちが各自目分量で適当な間隔を置いて植えていく乱雑な植え方であった。しかし苗代も短冊苗代へ切りかわるのと歩調を合せるようにして、田植えも県の奨励や、田の管理の上から、定規を使った正条植えに切り変っていった。
この頃の正条植えについては明治40年(1907)8月23日の郡下町村長会の席上、郡長から次の訓示がなされている。
「正条植ニヨリ一反歩ニ対シ壱斗三升の増収アルヲ以テ之ヲ郡下全水田ヲ実行シ得レバ、一万三十九石余ノ増収ヲ得ベク内反別ノ一割ハ実行二適セズトスルモ、尚九千三十六石余ノ増収トナルノミナラズ、尚之レガ為二爾後ノ手入、耕転其ノ他ニ於テ、時日ト労力ヲ節約シ得ル利益甚ダ多シ。」(『三原村史』)
尚当時幡多郡下における正条植の実施状況について、郡から示された調査表は左記のとおりである。
幡多郡下正条植実施状況
地 区 町村名 町 村 別
普及の準備
水田反別
(町)
正条植
実施歩合
宿 毛 平 田  6    323.6     42.0
山 奈 314.7  30.0
橋 上 16 135.5 10.9
和 田 30 327.2 1.0
宿 毛 32 314.9 0.2
小筑紫      206.4
沖の島   2.6
中 村 下 田 163.0 60.0
山 中 105.5 50.0
後 川 13 379.1 14.5
中 村 14 106.3 14.0
中 筋 15 324.2 13.0
東中筋 17 324.5 10.0
八 束 18 250.6 9.3
蕨 岡 19 212.9 9.0
具 同 21 235.6 7.0
東 山 23 321.5 4.6
大川筋   145.7
大 月 月 灘 153.0 38.0
奥 内 19 306.6 9.0
三 原 三 原 29 373.2 1.6
大 方

佐 賀
入 野 122.2 42.9
佐 賀 10 270.0 22.0
白田川 22 209.6 5.0
七 郷 26 277.5 2.9
田ノ口 28 278.6 1.7
清 水 三 崎 291.1 89.2
伊豆田 11 191.1 21.0
清 松 12 111.6 19.0
下川口 25 205.0 3.7
上 灘 27 94.9 2.0
北 幡 十 川 74.0 60.0
東上山 176.1 30.0
津 大 24 219.7 4.3
江川崎 30 110.4 1.0
西上山     112.9
この表に見る通り、平田・山奈は比較的高いものの、その頃幡多郡36か町村の内宿毛市での普及率は全般的に低く、宿毛は0.2%、小筑紫・沖の島は皆無であった。
然しその後宿毛でも、この頃から急激に正条植えに切り換えられていくと共に、除草機も普及していった。

麦作り
明治初期の農村は、自給自足の経済生活が行われていたが、税金などを納入するのには金が必要だが、換金作物としては米が主であったのでほとんどの農家は米を売って金にかえた。その為、麦は農家にとってはなくてはならない食糧であった。
麦は、ごはんにたき、小麦などは粉にひいてうどんなどにしたり、又醤油や味噌の原料、家畜の飼料として使用した。
麦は畑や乾田に作られたが、特に宿毛湾沿岸に多い山畑や、松田川・伊与野川・福良川などの河川流域の水田の裏作として作られた。
麦は冬11月頃種を蒔き6月頃収穫するのであるが、「稲は地力で、麦は肥料でとれ」といわれるように、大変肥料を必要とした。そこで元肥は主として堆厩肥を使い、追い肥は下肥を使った。人家から遠く離れた麦田や麦畑へ下肥を運ぷのは大変な作業で、特に大島や池島などの山畑は大変であった。大島などでは、急な山道を数人掛リでリレーして何百メートル、時には1キロ以上も運ぶのであるが、急な山道を運ぶには、前のたごが、地につかえるので、かにの横ばいのような形で、にないあげなくてはならないところもあった。谷間や峠の曲りくねったでこぼこ道を、えっさえっさとになって行き、肩のいたいのをがまんしてやっと目的地にたどりついたと思った時、足をふみすべらし、頭から下肥をかぶって、骨折り損のくたびれもうけとなるようなことも多く、大変な骨折りであった。その外麦畑の中耕及び土入れ、ところによっては麦ふみなども行なったが、収穫期は梅雨期になったので、早刈りすれば減収し、遅刈りすれば倒伏するので適期を選んで刈らなければならないが、乾田に麦を植えているところは稲作りの為の田ごしらえを考えねばならず又畑などは後すぐに甘藷の苗をさすというようなことで大変であった。麦作りについては宇須々木付近の人は柏島から下肥をとってきて施肥したし、宿毛近辺の人達は、町より下肥をとってきては施肥したので大変よい麦をつくり、宇須々木付近では、反当8俵もとったことがある。

甘藷作り
甘藷も農家にとっては麦と同じく主要な食糧であり、生いもを小さく切ったのや切干しにしたのを米や麦とともに炊いてごはんとし、又家畜などの飼科ともした。
麦刈りが終ると畝立をしいもさしの準備をした。あらかじめ圃場に植えておいた種いもから芽が出て伸びてきているので、その茎を、三十糎程に切りそれをさしていったのであるが、甘藷は割合肥料を必要としなかったので、麦のあとに植えるものなどは格別肥料をやらなかった。甘藷の手入れは、中耕とつるがえしであった。暑い夏の日中につるがえしをするのは大変であった。収穫は冬の初め霜のおりはじめる頃行なった。収穫した甘藷はいもつぼに貯わえる一方、切干しにして貯蔵し、冬から初夏にかけての食糧とした。