宿毛市史【近代、現代編-農業-農民の生活】

農家のすがた

明治時代の農村の特色は、衣食住すべてにわたリ、自給自足の生活が多くへ家の建て方にもその特長があらわれていた。
家はかやぶき、かわらぷき屋根が多く母屋の外に納屋・厩舎・肥納屋・藁小屋・木小屋などがあった。納屋の前には大抵広い庭があった。母屋と少し離れた庭の片隅に便所が作られている場合が多かった。
納屋は収穫した米麦を収納するところであるが、米麦の乾燥は庭でむしろにひろげて行なった。
厩舎は厩肥という肥料の生産場所となり、子牛を産ませ販売して現金収入の場となり、又畜力を利用することによる生産力増強の場となっていた。又藁小屋は藁細工の材料、厩肥の原料の置き場といった形であり、肥納屋は厩肥の貯蔵庫であった。木小屋は一年中の燃料の貯蔵庫で薪をたくわえていた。着物は自分の家で棉をつくり、それを紡いで糸とし、これをはたおり機でおりあげたのである。
当時は稲わら、麦わらはもちろん、下肥やちり、あくたに至るまで利用された。下肥は農家にとって最も大事な肥料であったので、便所は必らず庭先の、汲み取るのに都合のよい場所に建てられていた。又ちり等ははきだめをつくり、ここでくさらしたものを畠にいれたがなかなかよい有機質分を含んだ肥料であった。
稲わら、麦わらも捨てることなく利用され、牛馬の飼料や、敷わらとしたり、むしろ・俵・ふご等の農具となりなわをない、草履、わらじを作り又甘藷等の敷草といろいろな面に利用されたので、わら小屋に収納できないものはわらぐろに積まれた。麦わらも屋根の材料、敷わら、牛馬の敷わらなどに使われるし、甘藷の茎や葉は余すことなく牛馬の飼料となった。
衣料も自分の家で棉を作り機織り機で農閑期に織る人が多く、仕事着から普段着、布団地、晴着、娘の嫁入衣装までほとんどの家が自家製であった。そこで女は娘時代から機織りをして上手に機織りのできることが花嫁資格の1つとされる程であった。明治30年代になると日本に綿織物工業が発達し、安価な糸が供給されだすと棉花栽培はだんだん廃れ、明治40年代初期には全国的に衣料生産も廃れていったが、宿毛付近では大正の初期頃まで続けられていた。
副食としては、味噌と漬物が重要視されていたので、味噌と漬物は大ていの家で作られた。当時味噌は調味料というよりは、副食としての利用が多くなめ味噌としてのおかずであった。漬物も塩づけ、あさづけ、たくあんづけなどたくさんつけられ、年間1人当りいくらと目安をたてて作られていた。又醤油も普段は購入することなく味噌と同様に自家製のものを利用した。野菜も自家で栽培したので副食を買うことが少なく、魚もだしとして煮干魚を買うくらいであまり買うことがなかった。買うにしても物々交換で現金支出はほとんどなかった。
燃料も自家生産で、農閑期を利用して自分の山で木をきり薪をこしらえた。そしてそれを木小屋に蓄えておいたのである。新田や宿毛の四須賀などのように山のない人たちは、炭焼あとの残り木をこの谷からこの峰までというように買ったり、又雑木のたっている山を買いいれたりして、たきぎごしらえをした。冬になると、毎日毎日山へ通ったものである。
照明も電気がなかったので、菜種油を材料としたあんどんなどを利用していたので現金支出はなかったが、明治20年に日本石油会社が創設されて後には石油ランプがはいり大へん明るさをましたのであるが、石油ランプや油は、自家で製造するわけにはいかなかった。

農家の日々のくらし
農家では男の仕事は先ず草刈りから始まった。朝早く起き、朝食までに2荷の草を刈るのを普通とした。草は焼山へ行ったり畑の岸などを利用して刈るのである。
女は炊事にかかるわけであるが、先ず水くみが大変であった。釜屋に水をひきいれている山間の農家は別として、普通の家は大てい井戸が屋外にありまず水を汲まねばならなかった。水脈の関係で遠くまで汲みにいく所も多く、山奈町長尾や、萩原、大島などは井戸を掘っても水質がわるく100メートルも200メートルも離れた所まで汲みにいかねばならず、雨の日などは大変であった。
次にごはんをたくのであるが、昔の麦ごはんは大変であった。丸麦を宵のうちに水につけておき、よく水に浸して後に一度これをむし、その後米や甘藷などと一緒にたいたので大変時間を要した。その間に牛に草をきってやったり、子供や老人の世話と息のつくひまもない程である。牛馬の世話は朝昼晩ときまったようにしなけれぱならず、牛に食わすはみをきるのも、これが又一苦労であった。その外牛馬の飼料として、麦や甘藷をたいたりしたのである。夜は炊事の外大ていよなべ仕事をした。先づ草履つくりである。草履はすぐいたむので草履つくりも大へんであった。又つくろい物や洗濯もあり、女はほんとに休むひまもない位であった。

忙しい農作業
農家は1年中忙しく仂いたが、農作業を大きくわけると、農繁期と農閑期に分けられる。
農繁期は4月初旬の苗代作り頃から始まり、6月の田植え時期と10月の稲刈り頃が最も忙しかった。田の作業は田役に始まり田植えのための1番すき2番すき、あらかき、土寄せ、かしき入、代かき、田植と続くが、田植えの頃は、又麦かり、収納、いもさしと作業が重なり、明治後半にはこの上に養蚕の仕事まで割りこんできたのである。この頃が一番忙しく猫の手もかりたいというたとえをした程である。
田植えがすむと、草取りが始まり1番草から、4番草までとった。手取りは一反を3、4人役位でとりあげたが、草取リの最後の方には、指の皮がはげ血がにじむ程であった。この手取りは明治40年位まで続きだんだん除草機へと変っていった。草取りの合間をぬって甘藷の中耕とつるがえしを行なった。
秋のとりいれも忙しかった。百姓はわれ先にと稲刈りを行ない2、3日田干しをしておいてから束にして家にとってかえり、夜をかけていねこきをし、家の前の庭や、畑などにわらをしき、その上にしいたむしろで籾を干した。籾干しは天気がよいと2、3日で干しあげたが、籾を平均に乾燥させるのに、籾をまぜねばならず日がおちると納屋にとりいれねばならず、一仕事であった。いねこきは初めは金ばし(千歯こき)でおこなったので大変時間をくい夜を徹して行うような情態であったが、後には足ふみ脱穀機が入り仕事の能率が上った。

農閑期
農閑期は冬から早春にかけての時期でその間の大きな仕事はたきぎとり藁仕事はた織りであった。薪とりは山より遠い所の人は、一里も離れた山に出かけ、終日たきぎをつくリ、これを家まで運んだ。雨の日などは男は納屋で、繩をない、俵や、むしろをつくり、みのやふごなどをつくった。女は、はたをおり、家の人の着物をつくったり、味噌・醤油・漬物などをつくった。
子どもたちも、家族の一員として、いろいろと手伝わされ、10才頃ともなると、子守、水汲み、風呂わかし、ふき掃除、もう少し大きくなると、牛馬の世話から、父母と共に野良仕事をした。13、4才になると牛馬を使って田畑をすいた者もいた程である。
豪農などは、男衆・女中・子守などをやとい入れ、労働の手助けをさせていた。
子守などは、生活苦からの口減らしということもあって、賃銀契約のない場合も多く、子守のほか、家事一切何でもやらされた。一人前の女としてしつけてもらうことを有難いものとして、厳しくしつけられることをかえって善意に解釈して有難がるような面があり、食べさせてもらい、着せてもらって何の不服があるのかと娘を叱る程であった。
宿毛付近で昔から歌われた子守歌につぎのようなものがあって、子守のようすがよくわかる。
「守というもな辛いもの、親にゃ叱られ、子にゃ泣かれ、他人にゃ楽なように思われて」