宿毛市史【近代、現代編-農業-林新田小作争議】

林新田小作争議

閘門
閘 門
林新田小作争議は昭和10年に始まリ11年調停裁判により決着のついた争議である。
林新田はもともと林有造が地元の人達の協力で、堤を築いて海を締め切り、閘門により海水を除去して出来た土地であるが、のちに15,000円で有造の個人所有となり、開拓者を募集して開いた土地である。一般に小作人と言えば、地主より土地を借り受け、耕作して加治子を納入するのをたてまえとしているけれど、林新田の場合は、入植者が自分で開拓した田を、林より借り受けて作ると云う、独特の小作形式であった。この形式は高知県に古くからあった永小作と同じようなものであった。
永小作というのは土佐藩の初期の執政野中兼山が、長宗我部遺臣を懐柔するために作った制度である。兼山は長宗我部遺臣で荒地を開墾し新田三町歩以上を開いた者には郷士の身分を与えた。そこで長宗我部遺臣は香長平野などで農民を使って開拓した。その時開拓した人には永久に小作する権利を与え保護する政策をとった。相続することはもちろん、譲渡することも許され、小作料も格段に安く一定していた。この開拓した農民を永小作人といった。そこで永小作人は「上土持うわつちもち」、地主である郷士は「底土もち」と区別していわれていた。この永小作の問題は明治の地租改正による土地所有権確立の際問題化し、昭和21年農地改革の頃まで混乱していた。
林新田の場合も開拓の経過を見れぱわかるように、永小作と類似点が多い。その類似点をあげて見ると、自分で開拓しても林の土地であるが、開拓した土地を他人に譲る権利はあったということである。
小作料については明治末期に改正し、1等級九斗、2等級八斗、3等級七斗、四等級六斗五升、5等級は年々検見をして決定するとあるが、1等級の土地で平年作反当5俵であったというから普通の小作地とかわることはなかったと思われる。
新田開拓も大分進みようやく安定した稲作経営ができ始めた大正9年の8月、大洪水が起り松田川堤防が宿毛大橋付近で決壊したのに伴って、宿毛総曲輪や海に面した堤防が決壊したので、土砂の流入はもちろん海水も入り、大被害を被った。そこで総曲輪修復はもちろん海に面した堤もなおさなければならなかった。海に面した堤は最初片島中学校のところから小深浦に通ずる現在の堤の位置に築かれていたのであるが、明治23年の大水による決壊を期に、現在の土佐ホテルより南にのびて片島に至る線まで後退して作られていたが、大正9年に決壊したのでこれを又現位置につけかえたものである。
このようにたいへん復旧に骨を折ったが、その上、世界大戦後は不景気となり、これが慢性化していたのに、昭和5、6年頃の、農村大不況で農産物価格は大暴落をした。ちなみに米について、その当時の我が国の状況を記しておくと「昭和5年10月2日、米の収穫予想量が平年に比べ12.5%増と発表されると、10月3日には、7月の米価一石30円50銭、9月の28円70銭から、いっきょに19円台に下落し、豊作飢饉と云われた。」(『日本の歴史』)
これは日本が経済不況のうえに、朝鮮・台湾の米穀改良運動が実を結び、内地米と同じような品質の米を、大量に輸入した事により内地米と競い合うことも一つの大きな原因であった。この不況はその後も続き「昭和7年11月の深川正米市場平均相場は17円42銭になった。」(『高知県農地改革史』)
この不況はその後も続き、特に東北地方の農村は冷害などにより困窮し、昭和9年の頃は、「娘の身売以外に妙策はないという所まで追いこまれ、身売りが東北全体でどれ程の数にのぼったか、その真相は誰にも解らないといわれた」(『日本の歴史』)程で、欠食児童が新聞をにぎわしたのも、この頃であった。
新田の小作農民は米を唯一の収入財源としていたので、米価の暴落は大変な痛手であった。それに加えて肥料・資材等は、資本家のカルテル等の防衛措置により、高値を維持したので、売る物は安く、買う物は高いという、変則的な経済態勢に泣かされていたのである。このような状勢のもとで苦しんでいた新田小作農民に追い打ちをかけるように、昭和10年に大出水があり穂ばらみ期の稲が冠水してしまった。そのため大部分の稲が自穂となり凶作が決定的となった。そこで部落民は部落総会を開き対策を協議した結果、区長の中西友吉と沢田五十馬・島崎鹿蔵・中西一氏を代表に選出し、林家に小作料の軽減を嘆願したが願いは聞き入れられなかった。そこで部落民が相談の上、その頃小作争議に参画して力を尽していた全国農民組合高知県連合会に指導と応援を求めた。
農民組合を主体とする農民運動は、欧州大戦の影響をうけて大正5、6年頃岐阜県に起り、戦後の反動不況により急激に盛んになっていった。欧州大戦に至る迄の日本は、日清日露の戦争等を通して急激に西欧資本主義文明に近づかんとし経済進展のために力をいれていたが、その進歩は比較的緩漫で大した事はなく、農村に於ては大部分が自給自足の生活であった。しかし欧州大戦により、日本の貿易が、飛躍的に促進され、工業が盛んとなり、未曽有の好況をもたらしたことによって、資本主義的貨幣経済社会に変っていった。
農業面でも、この好況の恩恵に浴した所が多く、急激に貨幣経済の渦の中に巻きこまれていったが、この好況の反動として、好況時の利益を根こそぎ奪ってなお余りあるような、不況に襲われた。そこで今まで以上に農村は困窮し、土地を売って自作農から、小作農に転落する者、生活に窮して子女の身売りをする小作農も現われた。
このような不況が原因となって、農民運動が急激に盛んになり、大正11年4月には、賀川豊彦・杉山元治郎が発起人となって、神戸で日本農民組合を作った。このように農民運動は全国的な組織にまで発展した。
「大正7年から11年の5年間に小作人団体は1,340組合になった。」(『国民の歴史』)といわれている。
このように組合運動の盛んになった原因としては、外では1917年のロシア革命、内では1918年の米騒動と労働運動の高揚により、社会主義思想、大正デモクラシー思想が農村にまで浸透し、農民に多大の影響を与えたこと、又戦後恐慌で農民の生活が悪化したこと、又この頃盛んになっていた産米検査制度が小作人の負担を増大させたことなどによる。その後農村不況は続き、昭和5年から9年頃にかけて、特にひどかったので、全国的な小作争議が多発したのである。
高知県の農民運動が活発になったのは、産米検査制度反対運動であった。県は昭和4年2月12日県令第12号で穀物検査規則を制定し、政友会・民政党などの支持のもとにこの規則を実施する為、関係者が町村に出張して説明会を開いた。
この規則の趣旨は、米の品質検査をし規格を統一して商品としての価値の向上を図るというものであり、俵を改良して二重俵装にし米の脱ろうを防ごうとしたり、乾燥の適否、米の品質検査などが主な内容であった。
この規則は地主にとっては良質の小作米が取得出来るので大賛成であったが、小作農民は、俵の生産に手間を食う上に、品質検査を厳重にされると、等外米がたくさんでき、中には等外米を売って、その代価で等内米を買い地主へ納めねばならないという様なことになることがわかってきた。そこで農民は俄然不服を唱え、新改、岩村、長岡等、香長平野付近の農民が県庁に押し寄せたりして大騒動となった。
大石大の呼びかけで、7月23日、県下各地から、2万余名の農民が高知市に集まり農民大会を開いた。この時野外集会が禁止になったので、参加者は、堀詰産・天理教・本願寺等に分散して米検反対の決議を行なった。この結果当時の田中知事と大石が会見し話し合った結果、知事はこの規則の廃止を約束した。そして県議会でも廃止を決議したので混乱はおさまった。
この事件等が契機となって農民組合運動が香長・高岡付近を中心として盛んとなった。
昭和10年頃高知県の農民運動を指導していたのは、全国農民組合高知県連合会で林新田の争議には、県連書記長田村乙彦が中心となってあたった。田村は当時23才で血気盛んな青年であった。高知と宿毛の間を自転車で往復し、礼金は一文もとらなかったという。田村は小作人の先頭にたって林家に小作人の窮状を訴え、小作料の減免等について交渉を行なったが要求は受け入れられなかった。そこで小作人は小作料不納を決めると共に、この窮状を町民に訴えるため演説会を開いた。演説会は宿毛劇場と片島で開き、全国農民組合高知県連合会組合長岡崎精郎・尾崎治一・氏原一郎・板原伝の各氏が応援弁士にたった。当時は日本が中国大陸に進出し、軍国主義化の傾向が強くなった頃であり、労働運動弾圧は厳しく、集会などについては、警察権力がたえず監視の目を光らせていた。
そこで弁士たちは演説内容に細心の注意を払わなくてはならない状態で、警官は応援弁士が壇上で少しでも国を批判すると「弁士注意」といい、続いて演説をすれば「中止」とどなり、それでも演説を続行すれぱ検束というような状態であった。当時の農民運動弾圧法規としては、警察犯処罰令、行政執行法、違警罪即決令、暴力行為取締法等があったが、治安維持法ができてからは特高警察が絶えず目を光らせ、演説会には必らず警官が出席して監視をしていた。しかし宿毛劇場と片島で開いた演説会も多少注意を受けることはあったが大したことはなく終った。
このような小作人の動きに対し林家では、争議の重立った一部の人達の田に一夜の中に立入禁止の立札を建て、小作代理者を決めて表示すると共に、稲の差押えと小作地の取り上げという態度を示した。そこで小作人は立札を抜き去ると共に小作代理者に小作返上を約束させた。このように状勢が険悪化長期化の様相を呈してきたので林家は中村裁判駈へ提訴した。そこで小作人は豊田、林家は山崎弁護士をたてて争い11年1月結審となった。その結果小作人の言い分が通り小作料は減免となって争議は終った。

争議のその後
現在の林新田
現在の林新田
昭和12年には蘆溝橋事件が起り日中戦争から太平洋戦争へと発展していったので、若い者はだんだん兵隊に召集されて労力が不足したことから開拓は停滞し、新しい開墾地がほとんど見られなくなり、新田の西半分位は、あしの生えた沼地のままで、鴨や、ばんの群れ遊ぶ楽天地であった。昭和20年の爆弾と翌21年の南海地震のために片島中学のそばの堤が決壊したが幸い秋の取入れのすんだ後であったので大した被害はなく終った。
20年終戦と共に食糧危機を迎え、農地改革が断行されたのを機会に、他部落の人達も開拓に入り、耕地が拡大された。
永いこと小作人として苦しんでいた新田の人達も、この農地改革により、自分の土地とすることが出来たので、生産意欲も向上し、急激に生活も向上していったが、それと共に宅地ブームで県道片島線沿いに田畑の宅地化が進んで、農地を高価に手放すものも多く、益々経済的に豊かになっていった。
戦後開拓された沖の方の田も、米の生産過剰などで休耕田となるものが多く、昭和47年頃より宿毛湾開発ブームで、休耕田を含む沼地等に、大規模な土地造成がなされ、その上新田中央を縦貫する産業バイパスの建設、与市明川の改修などであしなどの生えた昔の沼のおもかげはなくなってしまった。
今は土地造成のなされた所に点々と家が建てられているが、国鉄宿毛駅の建設、バイパスの宿毛までの貫通などにより近い将来新田の開墾地のおもかげはなくなっていくことであろう。