宿毛市史【近代、現代編-農業-米価の変遷と供出制度】

米価の変遷と供出制度

農家の最大の収入源である米価については、変動が激しく農家はいつも泣かされていた。そこで政府は早くより米価を安定さすことに意を用い、大正6年に農業倉庫法を作り、米を倉庫に保管することによって、販売ができ秋に集中して、米価の下ることをさけたが、第1次大戦後の恐慌で、米価が暴落したため大正10年米穀法(米穀需給調整特別会計法)を作り、米価の安定と維持に努めたが、続いて大正14年米穀法を改正し、数量調節だけでなく、市価調節をするようにした。しかし昭和5年に起った農業恐慌で、米価は更に暴落したため昭和6年に米穀法を改正し、米の最高と最低基準価格を作り、最低価格より米価が下った時は、その基準価格で買上げ、反対にあがった時は政府の手持米を払い下げるという制度を作り農民保護につとめた。この恐慌は、昭和6年満州事変の開始によって漸く回復に向うことになったが、昭和12年7月7日日華事変がぼっ発し、その後戦線が中国本土へと拡がっていって長期戦の様相となると同時に、食糧事情も悪くなっていった。米は昭和5年の農業恐慌で米価が低落した時、外地米が内地米を圧迫するという理由で外地米抑制政策がとられて、増産計画が中止されていたのと、日華事変開始後、軍隊や工場への大量の農業労働者の流出は、生産の基礎となっていた集約農業の制約となり、たちまち食糧生産の低下がおこった。特に昭和14年、西日本や、朝鮮、台湾を襲った早魃によって、米の生産低下がおこり、食糧危機が叫ばれるようになった。これに先立ち政府は、11年米穀自治管理法を作り、更に14年4月、米穀配給統制法を公布し、米の最高価格を決めると同時に、強制買上げ令が発動された。15年4月には農会法が改正され、農会には農業の統制を行う権限を与えられた。更に8月14日には臨時米穀配給統制規則が公布され、生産者から販売された米は、農会の出荷統制に従って産業組合に売り渡され、高知県米穀販売購買組合連合会、全国米穀販売購買組合連合会を通じて、米穀配給統制法によって出来た、日本米穀株式会社に売り渡されることになった。(商人系の集荷も認められ、米穀商組合と県米穀商統制団体の手を通じて米穀会社に売られていた。)17年2月に食糧管理法(食管法)が公布され、7月から実施されたが、この時から商人の手から完全に離れ、割当ては農会が担当し集荷は産業組合が行うことになった。18年の農業団体法によって19年に産業組合と農業会が一緒になって出来た農業会が、食糧(米に限らず麦、甘藷など)の割当てと集荷を一手に引き受けることになって完全な政府の食糧統制の下請け機関となった。

ヤミ米の横行
戦時色が濃厚となってきた昭和12年9月18日の物価停止令により物価は同年7月を基準として、全部据置かれることになったが、その後物資不足で、ヤミ米が横行したりした為供出が思わしくなかったので、政府は生産者米価と消費者米価を別建てとし、その差額を政府が負担するいわゆる米の二重価格制度と奨励金制度が実施されることになったが、これが今日の米の二重価格制度のはじめである。供出は昭和15年臨時米穀配給統制規則が公布されてから始まったが、供出は戦争の進むにつれてきぴしくなり、16年には、普通の割当以外に農家手持米の自発的な供出が勧誘され、17年には麦、甘藷とその範囲が広がり、さらに18年になると、今までの個人割当から部落割当へと方法が改正され、供出が大変重くなって完納がなかなかむつかしい程になったので、部落民の連帯責任感を利用して割当てを達成しようとした。戦争も末期の19年には、作柄も予想のつかない田植え前から、割当が決定されたが、肥料も少なく、人手も足りなかったから、精一杯働いてよい稲を作らなくては、なかなか完納できなかった。この供出は戦後も続いたが、肥料や農薬がなかったことなどもあって生産があがらなかったことと、復員者、海外引揚者などの関係で、ますます食糧が不足した。その上供出の成績がふるわなくなってきたので食糧が極端に不足し配給量は、20年は1日二合一勺となった。このような僅かな配給では食べていくことができなかったのでヤミ物資が横行した。特に都市や漁村からの米の買出しが多く、農家の人達は、保有米をさいては、ヤミ米として売ったものである。

強権発動
占領下の21年2月に「食糧緊急措置令」が発せられ、供出を完了しない農家には、家宅捜査を行なって、米の強制取立てをするという強権発動が行なわれた。
強権発動は萩原部落、新田部落などに行われたが、萩原部落の古老の話によると、明治・大正・昭和にかけてこれ程困った事はなかった。米をごっそり持っていかれたので食糧が不足し、他部落の親せきへ夜こっそりいって米を買ってきたが、供出で一俵220円の米が4,200円もしたのにはびっくりしたという。新田のような畑が少なく、裏作も出来ないような所は強権発動には困ったらしく、仕方なく山へ穴を掘って隠したり、一俵の俵の中へ五斗いれて保有米の俵数を調べさせてごまかしたりしたそうである。強権発動をうけた部落の人達に聞くと供出割当に大変不公平があり、一目瞭然とわかる平担地の百姓は過重な供出に苦しめられ、山間へき地の百姓の方が軽かったといわれた。和田が宿毛より分村するといって町会でもめたことがあったが、これも宿毛と一しょにいると供出が多いからだと騒がれたことが原因となったといわれる。
戦後は21年に食糧調整委員会ができ、22年には農業調整委員会となって、供出についての市町村長の諮問機関となって活躍したが、広い田畑であるから不公平もあっただろうと思われるし、戦前から引き継がれた割当に対する実績も影響したと思われるので大変な仕事であった。
つぎに山奈村の昭和22年の米の供出完納の内容を列挙して見るとつぎのようである。
作付総面積3155反7畝11歩
実 収 量3687石8斗9升
調査員の調査による反当収量   1石1斗7升
供出可能者の作付反別2737反2畝11歩
収   量3402石8斗
反当見積   1石2斗5升
供出可能の農家数 297戸
飯米保有量1910石9斗
県割当量2691石6斗
合   計4602石5斗
差   引1199石7斗不足
この不足米をなくすのに反当1石2斗5升に9升を加えて反当収量を1石3斗4升として供出割当を出している。調査員の調査したものより、1斗7升も多く見積って供出割当を算出しているので、大変無理のあったことを知ることが出来る。
又保有米にみたない米収しかない農家は転落農家と言ったが、山間などの村には、転落農家が多く、旧橋上村などは極端に供出量が少なかったが、米作中心の宿毛・平田・山奈などは、供出量が多く、供出完納のために苦しんだ。戦後農薬、肥料の開発に伴う米作技術の開発などで、米が増産されるようになって食糧事情がよくなってきた事、MSA協定によりアメリカの余剰農産物が入ってくるようになったことなどから、今までの供出制度はようやく緩和されて、30年より予約売渡し制度に変更され、これより急激に米価事情がかわっていった。