宿毛市史【近代、現代編-農業-戦後の農業】

家屋構造の変化と生活改善

戦後生活改善として先づ第一に取りあげられたのが台所改善であったが、農家のかまどはほとんど薪を燃料とするかまどで、土をねり石や瓦をあいだにいれてはつきあげるというような簡単なもので燃え方が悪く、煙のために炊事場全体が真黒くなる程であったが、改良かまどでは瓦、耐火煉瓦などをつかい煙突があり焚口と灰取口が別になっていて、燃え易く、熱を効率よく使い、清潔で長持するというようなものが作られ、大ていの場合ごはんをたくところおかずをたく所(茶をわかすところのある場合もある)牛、馬の飼料をたく所というように、かまどが3つも4つもつくられていた。しかし燃料革命によりプロパンガスや電気が利用されだすとかまどの必要はなくなり、又農耕用としての牛馬の役目も自動車やトラクター等の発達により必要がなくなって、かまどはいつの間にか姿を消してガスコンロや電熱器にかわっていった。又井戸水をくんで炊事をしていたのが、上水道又は簡易水道となり、炊事場は清潔で能率のよい構造にかわり、洗濯機の出現等によって主婦の労力を節減することができるようになった。
プロパンガス使用で炊事場は燃料用薪炭の必要をなくしたことによって、木こりの労力と木小屋を節約できることとなった。又機械力や金肥の導入によって、農耕用牛馬の必要をなくし、草刈り草きり肥たてなどの労力を省くと共に牛小屋及び厩肥舎をなくすことになった。
最近ではコンバインの普及で藁の取入もなくなったので、藁小屋もいらなくなり、昔の納屋は農機具格納庫などに変っている。

農機具
農機具には人力用、畜力用、動力用とあるが後者程能率がよく人力から畜力へ、畜力から動力へとだんだん進歩してきている。
戦前にあった動力用農機具といえば、電動機や石油発動機による灌漑や、脱穀、もみ摺機などで、農耕には主として畜力を利用、後は人力によるより外なかった。
動力機械として戦後早く使われ始めたのが、脱穀機であったが、耕耘機も30年前半よりだんだん使われ始め、牛馬は急速に減って行き牛馬にかわる運搬用として農用三輪トラックがふえてきた。45年頃になると米麦用乾燥機、稲麦用刈取機、田植機、コンバイン等と機械の使用が急激に増え、これらの使用により労力の節減となったが、これらの機械は消費材であるので何年かすると更新しなければならず、そのため機械を買う為に出稼ぎに出るというような現象もおき、機械化貧乏ともいわれている。

農薬と肥料
昭和25年8月肥料の統制が撤廃された。戦後は食糧増産の立場から、堆厩肥、人糞尿、緑肥などが施用されると同時に、農業改良普及員の酸土検定をもとに石灰撒布による酸性土壤の改良を行なったりして増産に努力したが、25年頃より尿素・石灰窒素・塩安、アメリカより輸入された硝安などが使われ始め、その後熔燐ができて、特に尿素や熔燐が多く使われた。その後珪カルがつかわれたり配合肥料がつかわれたりしたが、30年前半より化成肥料の時代に入った。又37年頃には除草を主目的としてPCP尿素が農薬肥料として登場し、田植前に除草処理をしたが毒性が強いため池のふなや鯉をつきあがらせ、死がいで池の面が真白くなる位であったが、新除草剤ができて水棲動物を殺すというようなことがなくなり、最近は一時は影をひそめたとんぼなどもあらわれるようになった。この外に水田除草剤として24Dの普及があり、その後MCP、クロロ-PCなども使われている。この除草剤の出現は農作業の一大革命で、炎天下の苦しい草取りの労力をはぷくことになった。
戦前は病虫害には適当な予防措置が見つからず、泣かされていたものであるが、戦後まもなく進駐軍から、農薬用としてDDTが放出され、続いて26年頃からBHCも使われるようになった。つぎにパラチオン剤、水銀剤が使用されるようになったので、いもち病、メイ虫、ウンカなどを完全に防除出来るようになり病虫害に制約されることがなくなったので、栽培時期、肥料、品種などにあまりこだわることがなくなった。これらの薬剤は液剤撒布と粉剤撒布があるがパイプスターのような能率的な散粉器もできている。