宿毛市史【近代、現代編-農業-農村の過疎化現象】

農村の過疎化現象

昭和25年6月に始まった朝鮮動乱は、日本に特需(軍事資材の調達や、軍事基地としての外貨収入)をもたらしたので、日本経済界にとって起死回生の事件でありこの動乱が契機となり、重化学工業が発達すると共に、日本の政治も工業優先の政治に急激に変化していった。この動乱も28年には終ったが29年に行われたMSA協定(日米相互間で行われた相互防衛援助協定)の一環として調印されたMSA小麦協定は、特に日本の農村に重大な影響を与え、その後の農村の行き方をかえる一つの転期となった。
MSA小麦購入協定では、MSA援助総額のうちの5千万ドル分を日本へ送るが、日本政府は、その代価の80%(144憶円)は駐留アメリカ軍の対日支払いに充当し、残り20%(36億円)は贈与するが、兵器生産の設備資金と余剰農産物(小麦)の市場開拓費(MSAの550条)として利用することが規定されており、日本はそれをうけて、法律第480号(余剰農産物処理法)をつくって処理している。その後も29年秋、30年とひもつきの余剰農産物を買いつけた。政府はMSA協定調印の前年28年には、粉食奨励金を支出していることでもわかるように、米の不足をおぎなうために外国の安い小麦を買いつけて、パン食等を国民に奨励しはじめ、パンと脱脂粉乳に依存する学校給食法を29年につくったり、食生活の改善はパン食からというようなことをマスコミも協力して宣伝し、小麦の需要を伸ばしていった。麦作りはこの付近ではもう最近ではほとんど行なわれていないが、その原因は先に述べたように外国の余剰小麦が入ってきたこと、食生活改善で大麦、裸麦の需要がへったこと、他産業、他作物に比べ収益性が少ないことなどがあげられる。
朝鮮動乱以後我が国の工業は着々と進展し、35年池田内閣が誕生すると、所得倍増計画をうち出して日本は高度経済成長期に入り、工業や他産業従事者と、農業従事者との間に大きな開きができた。又工業の発達に伴う貿易面から工業製品の見返りとして農産物を中心とする貿易の自由化が、わが国経済界や先進諸国からも要請があり、政府は35年貿易の自由化にふみきり、自由化率を高めて、39年10月には93%の自由化を実現した。これにより農産物価格は暴落し、甘藷作りなどもだんだん行われなくなった。このことから麦甘藷などが主作物である開拓農家や小規模経営の農家では経済が成りたたなくなってきた。工業への雇用の増大と、農村の機械化や経営改善による労働時間の短縮などとが相まって、農村人口の流出が目立ち始め、三ちゃん農業という言葉も生れたように、農業を老人や嫁などにまかせ出稼ぎに出る人が多くなると同時に、兼業農家も増大していった。特に青少年の離農が目立つようになり、農村に残っているのは、大きな経営規模の農家の跡とりだけというような状態で、農家の嫁ききんが世間の注目を集めるようになった。又一家離村という形も多く、小筑紫町葛篭つづら部落は1軒もなくなり橋上町出井、下藤、奥藤部落などのように離村者が多くて部落の形をなさなくなっている所もある。