宿毛市史【近代、現代編-農業-農地改革】

地租改正と階層分化の進行

幕藩体制このかた農地制度の変遷で最も顕著なものは、明治6年の地租改正と昭和21年の農地改革である。
地租改正は明治政府が国家財政確立の基礎を築くために行なったもので、地券を発行して土地所有者を確定すると同時に地租納入を義務づけたものであった。地租は先ず地価を算定し、これに百分ノ三十の地租率をかげたもので、豊、凶作や米価に関係なく納入しなければならなかった。米価の低落や凶作の時は、中小農民を大層苦しめ、土地を手放すものや、離農するものもあったが、小作に転落するものが多くなった、それと同時に地主はだんだん力をましていった。
明治維新当時小作は全耕地の2割に満たなかったが、明治14年当時の大蔵卿松方正義の行なった、財政建直し政策は地主と小作の関係を決定的なものとした。
松方正義はインフレを抑制し、財政を建直すために不換紙幣の整理、地方税の増徴などを行なったが、これは政策的に無理を生じ、米価が暴落したため、地租や地租割を滞納して公売処分となったものが、明治16年から23年までに、4万7千281町歩あったが、1人平均8円31銭の滞納であることから、中小農民が財政的にいかに苦しんでいたかがわかる。公売になったこれらの土地は裕福な農民の手に移っていったが、又この外に明治17年から19年に至る僅か3年間に1億6,556万円の負債が生じ、借金の抵当流れで高利貸等資本家の手に2億334万円の価格の土地が移っていった。当時の全耕地価格が14億8干万円といわれているから約7分の1に相当する。こうして5円以上10円以下の地租を納める中農で土地を没収され、又は小農に転落したものは120万人小農で土地を失ったものは200万戸に達したといわれる。(『農地改革史』)
これらの人々の半数は、都会に転出して労働者となり、他の半数は小作に転落したと思われるが、その半面地租100円以上を納めるものが6割以上も増したということである。これらの事から、この時期は日本農政史上特筆されるべき時期であったことがわかる。
地主の農業経営は、欧米では大地主は大てい労働者を傭い入れて、大規模経営をしているが、日本では大地主に土地が集中したけれど、とびとびになった土地が多く、集団化されなかったので、生産活動が非能率的で農業経営上欠陥が多かったことと、明治20年代30年代になると、工業労働者がだんだん増加し、賃銀が少しずつあがってきたので従って農業労働者の賃銀もあがり、地主の傭い人を使っての農業経営が採算がとれなかったことなどが原因となって、日露戦争後になると、土地を小作に出してその小作料で生活するという寄生的地主になっていった。
地主は大ていの場合高額の小作料をとっていたが、明治18年頃の地租検査例によって地主と小作人の関係を見ると、中田(普通の田)一反当りの収入4円79銭のうち、地主の取前が1円63銭、地租及び村入費が同じく1円63銭、種籾代が72銭で結局小作人の手に残ったものは81銭となっている。このように小作人は一生懸命働いても、その大部分を地代と公課(税金、負担金等)にとられ、いつも苦しい生活をしていたのである。それに反し地主は米を売って利益をあげると同時に資本を蓄積し、産業投資などを行なってますます利益をあげ裕福な暮しをしていた。又地主は国より地租納入者としてたいへん優遇を受けていた。
例えば選挙を例にとって見たとき、明治23年地方自治制が施行されたが、市町村制では議員の選挙、被選挙権は地租もしくは直接国税2円以上納める者に限って与えられ、しかも納税額の多い順に選挙人名簿を作り、上位の者何人かで、その時の納税総額の半分に達した所で2分し、上位者を1級選挙人、下位者を2級選挙人として区別し上、下位同数の議員を選出することになっていた。具体的に説明するとある村の納税額は全部で2,000円で、このうち半分の1,000円は、Aほか25人によって納入されており、残りの1,000円はBほか400人が納入している場合、前者の25人が1級選挙人で、後者の400人が2級選挙人となる。そしてそれぞれ各5人の村会議員を選んだので、地主の町村政に対する発言力は大変大きいものがあり、特に大地主には有利な政治形態であった。このような制度は県会議員、衆議院議員、貴族院議員にまで及んだので、地主に有利な政治の行われるのは必然的であった。このようなことから身分階層が成立し、小作はいつも不利な立場に立たされることとなった。
政府は日清戦争の後、富国強兵、地租収入の安定、経済発展と購買力増強などの見地からだんだん農業政策に力をいれるようになり、明治33年耕地整理法、農会法、肥料取締法、33年産業組合法、大正6年農業倉庫法、10年米穀法など一連の政策を打ち出し農業政策に力をいれてきたが、場当り的な政策が多く小作農民の生活を豊かにすることはなかった。
日清、日露戦争は資本主義的産業の発達を促し、工業製品が農村に流入することによって、農家の自給自足経済を貨幣経済へと変えていった関係で、経済変動の影響を受けることが多くなった。特に資本の蓄積のない小作農民は不況になると、たちまち経済的に困ってしまった。
欧州大戦後の不況は世界的なものとなり、日本もこの影響で、米価やまゆ価の暴落などで深刻な不況となり、この不況は昭和5年から10年頃まで続いたが、小作者などはたいへん困窮し、東北地方の小作農民などは飢をしのぐ為に娘を売ってその身代金でやっと苦境をきりぬけたという。この苦境をきりぬけるために、地主に対する小作料軽減運動が小作争議へと発展し大正末期から昭和16年頃まで全国的に拡がった。この時代は半封建的な非民主的な時代であった。