宿毛市史【近代、現代編-林業-林業経営】

林業経営

林業経営は木を育てこれを利用して経済活動を営むのであるが、その主なものは人工林を育てて木材として売ることと萌芽林による薪や木炭の生産が主なものである。
植林は昔より輪伐制などにより行なわれ、土佐藩の主要な収入源となっていた。然し留木制があり、農民は勝手に杉桧などを処分することが出来なかった。維新後山林が個人所有となり、木材の販売も自由になったので、建築用材の自給はもちろん、だんだん経済生活の重要な柱として植林が行なわれるようになってきたが植林の普及には長年月を要した。その主な原因は植林を行なうには整地、植付、雑草刈り(下刈り)等と数年にわたる手間がかかる上に木材になるまでに35年から60年と長年月を要する事、道路整備がなされてないと木材搬出を困難とし経済効率が悪いというようなことがあった。そのようなことが主な原因で明治時代は植林熱はいたって低く国有林では篠山事業区で明治21年、宿毛事業区で同23年に杉、桧、松などが植林されているが、『幡多郡誌』によると「民林有は荒廃甚しかりしも明治42年以降本県に於ては造林補助苗木の無償配布を以て之が奨励をなし郡当局又鋭意造林の奨励に努力せしを以て作業林漸次増加するに至りしも私有林共有林野の多くは、従来各種の原因によって過少に分割せられ、経営不統一なる施業に委せられしは惜しみても余りあり」と記されている。
植林は主に人家に近い里山の谷間などを選んで行なわれたが、松田川では筏流しも行なわれたため、松田川筋には植林が多かった。しかし人家より遠く、道もない交通不便の地は、適地でありながら放置された所が多く、自然林が多かった。特にかしき刈りとして農民の利用していた野山はそのまま放置されたので、松やしだなど雑草の繁茂した山が多くあった。時代が移るにつれ奥地にも開発の手が伸び始め、植林が進んでいった。又行政面でも町村が力をいれるようになり山林会にひきつづき森林組合なども組織されるようになった。小筑紫村の事務報告書によれば小筑紫では昭和元年山林会を組織し同3年に森林組合を組織している。昭和14年には戦時の木材、薪炭の生産供出の目的で強制加入の森林組合が各町村に結成されている。そして昭和26年法の改正があって加入脱退の自由な組合となり、その後数回の改正がなされて今日に至っている。
太平洋戦争中は戦時統制による木材供出がなされ、杉、桧、松などが伐られ、ひき続き終戦後の復興のため木材の需要が多く、杉、桧はもちろん松も濫伐されていった。杉、桧は主として建築材、松は炭抗の抗木、紙の原料のパルプ材、建築材が主なものであった。これらが濫伐された跡地に植林が盛んに行なわれた。特に雑草やしだのおい茂っていたかや芝山は炭山としての価値もなかったので植林がなされた。植林されたものは松、杉、桧で、一時杉が多く植林されたが、桧の価値が見直され、最近は桧が多く植えられるようになった。杉は、湿気の多い砂質壤土などに適しているので谷間に植えられているものが多く、桧は比較的乾燥に強いので山の上部などに植えられている所が多い。松は昭和30年頃盛んに植えられたが、松の性質上植林した松は一定の年限に達すると成長が止ることと松材の値段が安いため、最近では植林されることはほとんどなくなった。
植林は初めは人家の近くか道路に面した所などが主で、うさぎの走る道のような狭い道に木をしき、その上をそりのような、木馬きうまにつみ人力でひきおろす(時には馬をつかう)のであったが、急坂などは危険で、力ーブなどでは操作をあやまって、木材をつんだ木馬と一しょに谷間に転落するというようなこともあった。又道より遠く離れた山に入り木を伐り出す時は、山中で木を鋸でひき割り梁や柱として出す場合もあった。木を伐りそれをひきわるのには技術を要するので、これを専門に行なった人たちがあった。木を伐る人をそまといい、元伐り、玉伐りを行なった。又木をひきわる人をこびきといい、大きな鋸(大おが)で木をひきわったり、はつりをかけて梁などに荒仕上をしたりした。
昭和10年代ごろから移動製材機が山の奥まで立入るようになってから、こぴきの仕事は次第になくなっていったがしかし移動製材機では大きい木をひくことはできなかったので、依然としてこびきの手にまかされた。然し林道が奥地まで入った事と、索道架設による運搬技術が進歩した事により、素材のまま製材所に運ばれるようになり、移動製材、こびきなどは30年代前半頃より急激に姿を消していった。この索道の進歩は辺地植林に光を与え、林道がないところ、高い山頂付近でも搬出を可能にしたため、土質のよい所はどんな所でも植林することを可能にした。朝鮮動乱による木材ブームにひきつづき、日本の経済成長に伴って木材需要も多くなった。しかし日本が高度経済成長をした結果、農林業従事者と都市労働者との間に賃金格差が生じた為、一家をあげて都市へ出るもの、又出稼ぎにゆくものがあり、山村の過疎化現象がおこった。
この現象の起ったもう一つの理由として、今まで収入の柱としてきた薪や炭が、戦後の燃料革命により、電気、ガスが普及したので需要がなくなり、値段が低下した事であった。そこでいままで炭山として価値のあった樫や椎などの林は、経済的価値が低下し、わずかにチップ材として利用されるにすぎなくなったのでそのまま放置されるものが多かった。県はこれらの遊休林を開発するため植林を奨励したが、植林は経済的価値を生ずるのに長年月を要するので、山村のれい細経営の人達はなかなかよう手がけなかった。この事に投資家が目をつけることとなり、投資家の手で植林がなされる一方、植林した山の売買などもなされ、今まで不動産と考えていた土地が、だんだん流動的となり、転売などが盛んに行なわれるようになった。この事により市外(特に愛媛県)の人達に売却される山が多くなっているが、宿毛市民として、宝の山を県外人の手にゆだねてしまうことは大へん残念なことであると思う。

大規模な人工林(楠山)
大規模な人工林(楠山)